公明党とはどんな政党か?創価学会との関係や政教分離について歴史的経緯から考察

■公明党とはどんな政党か?歴史的経緯から考察

①公明党の出発点は創価学会文化部

公明党の出発点は、日本最大の宗教団体の創価学会内に1954年に文化部が設置されたことにあります。

この文化部の目的は、文化活動(要するに創価学会会員を1955年に行われる予定の統一地方選挙に立候補させ政治に関与する)を展開することにありました。

文化活動は、当時の創価学会、戸田城聖初代会長の発案とされています。

戸田会長は後に”選挙は組織の引き締めに役に立つ”と述べていたように、独自の政党を持つことで創価学会本体にも良い影響を与えると考えていたようです。

②当初は地方議会に進出

1960年に行われた東京都内の大田区議会選挙等の統一地方選挙に創価学会の文化部員が立候補、複数の候補が当選。
創価学会として、初めて地方議会に人材を送り込むことに成功しました。

長く公明党委員長として活躍した竹入義勝氏は、東京の文京区議会議員に当選したことが政治家としてのスタートとなりました。その後、東京都議会議員を経て、衆議院議員に当選しています。

同じく、書記長を長く務めた矢野氏も当初は、大阪府議会議員からのスタートでした。

当選した文化部員は議会では当初、無所属の議員として活動をしていました。


③国政には、参議院から進出

1962年には、参議院選挙に当時の創価学会の最高幹部クラスが出馬、複数の候補者が当選、初めて国政の場で議席を得ました。

この頃には公明政治連盟という組織を結成、議員は組織的に活動するようになっていました。

④公明党結成

1964年の5月に池田大作創価学会会長が、公明党の結成と衆議院への進出を表明。

これをうけ、同年11月に両国の日大講堂において、公明党の結党大会が開かれ、公明党が結成されました。
公明党のキャッチフレーズは”大衆福祉の公明党”、”日本の柱 公明党”。

そして、結党宣言で公明党の使命について、”大衆と共に語り、大衆と共に戦い、大衆の中に死んでいく”。と表明しました。

この時、原島初代公明党委員長は、池田大作氏について”公明党の生みの親であり育ての親である”と演説しました。

⑤衆議院への進出

1966年に行われた衆議院選挙に初めて公明党として候補者をだし、25名の議席を得ました。これ以降、公明党の活動の中心は参議院から衆議院にシフトしていくことになりました。

ちなみにこの時、衆議院に初当選したばかりの竹入氏が公明党委員長に池田大作創価学会会長に指名されたことで就任しました。
この時、竹入氏は「今、池田先生から申し渡されたばかりで面食らっています」と述べています。

このように公明党として正式な政党となっても、党の人事権が創価学会側にあったことが窺えます。

⑥連立政権に参画、初めて与党に

1993年に誕生した細川首相を首班とする連立政権に参画、初めて与党になりました。

⑦自民党と連立政権

1999年には、自民党と連立政権を組み、現在の安倍政権に至っています。

■公明党の党名の由来とは?

日本では戦後、選挙における不正を排除することを目的とした公明選挙運動が行われていました。

公明党の党名の公明は、この公明選挙運動に由来しています。

このため、公明党結党後、公明選挙運動は、”明るく正しい選挙運動”に改名を余儀なくされました。


■公明党と創価学会との関係

公明党と創価学会との関係は、政教分離の観点から、結党当初から問われ続けています。
組織面からいうと、創価学会は公明党の支持母体です。
そのため、公明党選出の議員はほとんど、創価学会員となっています。

つまり、公明党は創価学会から生み出された党です。
算数でいえば、公明党は創価学会の部分集合というような存在です。

歴代の公明党委員長は、創価学会青年部長等の要職を務めた人物で占められています。

実際、公明党の結党当初は、政策課題として、「国立戒壇」(国会の議決で日蓮正宗の戒壇を作る)の実現を掲げていました。

この点で、立正佼成会等の宗教団体が特定の政党を支持する場合、あくまでも支持団体に過ぎないのと大きく異なります。

党を生み出した支持母体と党を外野から応援する支持団体では、母と団の一字違いですが、組織密着度という点から雲泥の差があります。
企業用語でたとえると、創価学会が親会社で公明党が子会社というような関係になります。

だからこそ、公明党が政教分離の観点から疑念を抱かれているのです。

■公明党が政教分離を迫られた言論出版妨害事件とは

1970年に当時、明治大学教授であった藤原弘達氏が”創価学会を斬る”という本を出版しました。

出版する計画を知った創価学会の幹部が出版阻止を目的に様々なかたちで藤原氏に圧力をかけたことが明らかになり、共産党を中心に国会でも追及されました。

この圧力には当時、自民党の実力者であった田中角栄元首相も関わったとされています。

言論出版妨害事件の過程で、公明党・創価学会は、言論界・世間から強い非難を浴びました。

そのため、創価学会・公明党は、両者の組織面からの分離を図ることを表明せざるをえなくなりました。

具体的には、それまで公明党の役職者は創価学会の役職を兼務していたものを創価学会の役職を辞任することで、組織面から政教分離を行いました。

ただ、組織面から政教分離をしたところで、公明党と創価学会の関係は本質的には今に至るまで何も変わっていないという見方が有力です。

この事件をきっかけに、自民党の田中角栄氏をはじめとする田中派と公明党に親密な関係が構築されたことが、後の自民・公明連立政権につながったといえます。


■公明党の政治スタンスとは?

★野党時代の政治スタンス

公明党の生みの親ともいえる池田大作氏は、公明党の政治路線について、”資本主義でもなければ、共産主義でもない第3の道、すなわち中道を目指す”と語っていたように、野党時代の公明党の政治スタンスは右でもなければ左でもない中道路線を歩んでいました。

ただ、野党時代は、現在よりも平和志向が強く、軍事費の増大に結びつきやすい憲法改正には否定的な左寄りの立場を貫いていました。

政治学的には、”中道という名の新たな保守”という見方が有力でした。

つまり、共産党等の左翼政党であれば、”社会体制の矛盾や不平等に対する不満や怒り”が政治活動の原動力となるのに対し、
公明党は、”日蓮正宗という宗教への信仰心”が原動力となっているという点で本質的には保守と看做されています。

実際、公明党は支持基盤が競合する共産党と選挙のたびに対立する等、反共という側面も持ち合わせており、これは現在も変わっていません。

この反共というスタンスのため、同じく共産党を厳しく非難する自民党ともともと結びつきやすい体質を持っていたことが現在の連立政権につながったとされています。

★連立政権下における政治スタンス

第2次安部政権に与党として参画してからは、現実路線に転じたといえます。

特に集団的自衛権に対する賛成はかつての平和志向からは考えられないような動きです。

■公明党の政策の特長

公明党の政策の特長は、結党以来
①福祉重視
②平和志向
③低所得者や中小企業重視
ということにあります。

これは、支持母体である創価学会の会員に低所得者層や中小企業従事者が多いことが影響しています。

そのため、低所得者になるほど負担感が強い消費税増税には慎重な一方、2015年のプレミアム商品券のような”バラマキ型”の政策を好むという側面もあります。

ただ、平和志向については、近年、集団的自衛権に賛成する等、大きく揺らいでいます。

■公明党は憲法違反か?

現行憲法では、”いかなる宗教団体も政治的な権力を行使してはならない”と政教分離について規定しています。

そこで問題になるのが、”創価学会が公明党を通じて政治的な権力を行使する”ことが憲法違反になるのではないかということです。

先述した言論出版事件において、国会で当時の佐藤栄作首相は”宗教団体の権力利用とは国家が関与する場合”と答弁して、公明党が憲法違反という見方を否定しました。

しかし、憲法制定時の戦後すぐの日本の状況から、日本国憲法の草案に関与した法律家は、”創価学会のような宗教団体自らが政党を生み出して、政治に乗り出す”とは考えもしなかったのではないでしょうか。

つまり、そもそも政教分離の規定について現行憲法が”国家が関与する場合しか規定していない”から憲法違反ではないと判断しているのに過ぎないとして、グレーだとする見方もあります。

■まとめ

公明党は、もともと平和志向が強い政党であったため、憲法改正等タカ派的な政策を好む安倍政権のブレーキ役を期待されていました。

しかし、集団自衛権への対応を見る限り、現実路線に舵をきっているように思えます。

公明党が標榜する中道政治とは、右にも左にも偏らないというのが特長ですが、悪くいうと真ん中から右にも左にも動きやすいともいえます。

実際、過去の公明党の歴史をみていると革新的なスタンスの時代もあれば、現在のような保守よりのスタンスの時代もあります。

創価学会会員以外に大きく支持を広げていくためには、政治スタンスのどんなときにもブレナイ軸のようなものが必要ではないかと感じます。


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