誰が何のために作ったのか?世界に現存する古代人の謎すぎる遺跡15選

未分類

1ギザの大ピラミッド
2秦の始皇帝陵
3マチュピチュ
4ゴルナヤ・ショリアの巨石遺跡
5モアイ像
6大都市テオティワカン
7モヘンジョダロ
8ナスカの地上絵
9ストーンヘンジ
10ケニア・エンゲディ遺跡
11カッパドキアの地下都市
12グレート・サーペント・マウンド
13カルナック列石
14ティヤの石碑群
15ポル=バジン

序文

世界中には古代人によって作られた遺跡が数多く残されていますが、調べてみると不可解な謎がいくつも浮かび上がってきます。

その中には現代の科学技術では、未だに誰が何のために作ったのかわからない遺跡もあります。

今回はそんな人々の興味を掴んで離さない、古代遺跡とその謎について15個紹介します。



どうやって作られたのか?ギザの大ピラミッド

ピラミッドは世界七不思議の一つに数えられ、その中で唯一現存している古代遺跡です。
エジプトの首都カイロ郊外に向かうと、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の通称「三大ピラミッド」が見えてきます。

その中でもクフ王のピラミッドは、底辺が230メートル、高さが147メートルとかなり巨大です。

作られたのは紀元前2560年頃とされていますが、この時、日本はまだ縄文時代なのです。

日本では文明も発達していない大昔に、どのようにピラミッドのような巨大な建造物が作られたのかはまだ解明されていません。

現在はミューオンを使った透視技術でピラミッドの内部を調査し、建築技術についての謎を解明中です。

参考:ナショナルジオグラフィック「今の科学でここまでわかった世界の謎99」書籍

自分だけの帝国を作ろうとした?秦の始皇帝陵

秦の始皇帝は、紀元前221年に群雄割拠だった中国を統一し、
絶対的な権力を手にしました。強大な力を背景に、不老不死の探求や万里の長城の建設、そして大規模な陵墓を建設したことは有名な話です。

今回紹介する始皇帝陵と呼ばれる墓は、紀元前246年から紀元前208年にかけて、約70万人もの労働者を動員して作られたと推定されています。
陵墓の内部は都市を模した作りとなっており、前漢時代の記録によると始皇帝の遺体の近くには水銀の川があったと言われています。

実際に水銀が干上がった跡もあり、本当に水銀の川が作られていた事実が判明しました。

その他にも職人や側室、奴隷なども一緒に埋められており、改めて始皇帝の権力の強大さを思い知らされるような場所です。

天空の都市・マチュピチュ

標高が高いところに位置する都市といえば、みなさんはマチュピチュが思い浮かぶのではないでしょうか?

天空都市と呼ばれるマチュピチュは、15世紀にインカ帝国によって建設された遺跡で、作られた目的や誰が住んでいたのかは未だ謎のままです。

なぜならインカ帝国は文字による記録を残さず、1533年にスペイン人によって滅ぼされてしまったからです。


現在の調査では巡礼などに使用する神聖な場所と考えられています。
インカ帝国は太陽信仰の民族で、マチュピチュは標高が2400メートルと高いため、太陽観測に最も適する場所なのです。

夏至と冬至が正確にわかる建物もあることから、巡礼や儀式などを行う神聖な場所だったと推定されています。




巨人が作った遺跡!?ゴルナヤ・ショリアの巨石遺跡

シベリア南部の山岳地帯ゴルナヤ・ショリアに、世界最大の巨石遺跡が2014年に偶然発見されました。

近くに立つ人間がとても小さく見えるほど遺跡は大きく、
その巨大さゆえに太古の巨人族か宇宙人が作ったのではと言われています。


遺跡の大きさは壁の高さが40m、横幅は200mで、
積み重ねられた石の重量は1000トン以上、一番大きい石はなんと2400トンだとか。

どのようにして巨石を切り出したのか、またどうやって運んで積み上げたのかは全く謎です。

しかも隙間なく綺麗に積み上げられており、大きいだけでなく非常に高度な建築技術が使われていることも伺えます。

一説ではギリシャ神話の一つ目巨人サイクロプスが作ったとも言われていますが、
このように巨大な建造物をみると、神話もただの御伽噺ではないと思ってしまいますね。

原住民の祭りのシンボルなのか?モアイ像

イースター島は有人の島としては地球上で最も孤立した島です。

そんな場所に1000年以上前、島の住人によってモアイ像は作られました。

モアイ像は巨大な一枚岩から顔を彫り出し、その後、立った状態で縄で目的地まで運搬した方法が確認されています。

大きさ3.5m、重量20トン程度のモアイ像をどのようにして作り、そして運んだのかはわかりましたが、肝心な存在理由は未だ謎のままです。

1722年にヨーロッパ人の探検家によって発見された当初、存在意義を知っている島民はすでに残っていませんでした。

またイースター島には未解読のロンゴロンゴ文字が書かれた平板があり、
それがまだ解読できていないのも未解明の一因となっています。

現在では、戦闘グループのシンボルか祭事などの目的で使われたと考えられています。

内部崩壊が原因で滅亡した?大都市遺跡テオティワカン

メキシコの首都メキシコシティから北東へ約50キロ進んだ地点に、大都市遺跡テオティワカンは存在します。

都市には格子状の道路が整備され、中央を貫く「死者の大通り」があり、
巨大な「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」が住宅街を見下ろしています。

ですが、テオティワカンを誰が作ったのかはまだわかっていません。

調査によるとテオティワカンは、紀元前2年から紀元前6年まで繁栄しており
、人口は812万人を抱える、西半球の主要都市の中では最大の都市だったそうです。

しかし都市を築いた人々の言語やルーツに関する記録は何も残っておらず、
このテオティワカンという名前すらも、12世紀頃にやってきたアステカ人が命名した呼び名なのです。

7世紀にテオティワカンは破壊されてしまいましたが、誰の仕業なのかは記録に残っていません。

一説によると、破壊された建物の大半が上流階級の人々のものだったことから、不満を持った市民による反乱が原因とも言われています。




死の丘・モヘンジョダロ

モヘンジョダロは現地の言葉で「死の丘」と呼ばれ、絶対に近づいてはいけない場所と言われていました。

パキスタン南部の都市カラチから約300km北上した場所に位置しており、
紀元前5500年ごろに作られ、世界四大文明の一つであるインダス文明最大の都市となりました。

精密な計画のもと古代都市は建設され、紀元前にもかかわらず水洗トイレや個人用の浴室など優れた治水技術が活用されていました。

ちなみにヨーロッパで水洗トイレが発明されたのは16世紀で、
モヘンジョダロは17世紀のイギリスよりも発展していたと推測されています。

紀元前2500年から紀元前1800年という短い期間で発展しましたが、その後、大洪水によって衰退したと言われています。

当時では最先端の技術を持っていたとされていますが、発掘作業がなかなか進まないことから未だに未解明の謎が多い遺跡です。

雨乞いの儀式に使われた?ナスカの地上絵

砂漠に描かれた巨大な動物や渦巻きの不思議な絵は、ペルー南西部の砂漠地帯に2000年前から存在しており、その数は1000以上にのぼります。

最初に地上絵は描いた人は、ナスカ文化が栄えた紀元前200年から紀元前600年の人々だと言われています。

雨や豊穣に関連する絵が多いことや、線に沿って昔の足跡が残っていることから、
神聖な儀式のために描かれた道だと考えられていますが、未だ仮説の域を出ていません。

近年ナスカの地上絵は自動車の侵入による破壊が著しく消滅の危機に瀕しており、いたずら書きなども問題になっている遺跡です。

神聖な場所に作られたモニュメント・ストーンヘンジ

ストーンヘンジは、イギリス南部にあるソールズベリーから北西に13km進んだところに位置する、世界で最も有名な先史時代の遺跡です。


紀元前3000年から紀元前1520年にかけて段階的に作られた環状列石で、1986年に文化遺産に登録されました。

多くの考古学者は太陽の観測所、神々のモニュメントなどと考えていますが、今のところ謎に包まれたままです。

ただ一つわかるのは、遮るものがなにもないソールズベリー平原が古代の人々にとって神聖な場所だったということです。

なぜならソールズベリー平原には、先史時代の遺跡や墓の跡がよく見つかるからです。

おそらくストーンヘンジも何か神聖な目的で作られたのでしょう。




森の奥深くに高度な文明都市が存在した?ケニア・エンゲディ都市遺跡

ケニアのマリンディの奥深くにある森林地帯には、世界中の国と交易が盛んだった大規模な都市がありました。

1948年に発見されたエンゲディ都市遺跡は、今でこそ石で作られた城壁の跡や、
柱と土台を残すのみですが、当時は約3000人が住んでいたと推定されています。

いつ建てられたのかは不明ですが、残された墓石には「1399年」の文字が記されていました。

都市には井戸があり、海の水を浄化して貯水していたと思われ、1
300年代のアフリカにしては、かなり高度な技術がなされていたと考えられています。

出土品の中には、イタリア製のビーズやスペインのハサミ、
中国・明王朝時代の花瓶やインド製のランプが発掘されたことから、世界中の国々と貿易していたことも伺えます。

このような高度な技術を持ち、貿易で栄えていた都市がなぜ滅んだのかについては、論争の最中です。

いつから存在したのか?カッパドキアの地下都市

トルコの中心にある高原地帯アナトリアには、きのこのような形をした岩がいくつも並んでいる観光名所・カッパドキアがあります。

カッパドキアの見どころといえば奇妙な形をした岩石群ですが、実は地下にも見どころがたくさんあるのです。

それは合計で36もある地下都市です。なんと何千年も昔の人は柔らかな岩を掘り進めて、そこを住まいとしたのです。

中でもカイマクルの地下都市の規模は最大で、深さは地下8階から10階までの深さに達しています。

最初に住んでいたのは紀元前16世紀にアナトリア半島に王国を築いたヒッタイト人と考えられていました。

その後、ローマ帝国の迫害を逃れた初期のキリスト教徒が移り住んできました。

地下都市がいつできたのかについては紀元前から存在していたことしかわからず、具体的な年代は謎に包まれています。

ヘビ信仰のシンボル?グレートサーペントマウンド

米国オハイオ州アダムズ郡のブルシュ=クリークには、蛇の形をした形象墳があります。

その全長は400mを超え、幅は6?8m、高さ1?2mで、どのような目的で作られたのか未だわかっておりません。

グレートサーペントマウンドに関する最古の1840年代の記録によると、作ったのは紀元前500年から紀元前200年まで、ブルシュ=クリークに住んでいたアデナ人だと記されていました。

しかし最近の放射性炭素年代測定法で調べたところ、もっと新しく、およそ900年ほど前に作られた事実が判明しました。

多くのアメリカ先住民の文化では、蛇に神聖な力があるとされていることから、儀式のために作られたと考える学者もいます。ですが、まだ本当の目的は解明されていません。




いつ誰が何のために作ったのか?カルナック列石

カルナック列石はフランス・ブルターニュ地方最大と言われる、3000以上の石が3kmに渡って立ち並んだ巨石遺構です。

構造は直立している単独の石「メンヒル」と、複数の石が組み合わさった「ドルメン」で、構成されています。

調査によると、紀元前5000年あるいは、紀元前3000年から紀元前2000年に建てられたと推定されていますが、誰が何の目的で作ったのかは未解明です。

伝説には異教徒の兵士によって海岸に追い詰められたカルナックの守護聖人が、兵士を石に変えてメンヒルができたと言われています。

そのほかには、古代の天文学装置、蜃気楼の観測所など様々な説が考えられている謎だらけの遺跡です。

アフリカの世界遺産・ティヤの石碑群

ティヤとはエチオピア南西部の南部諸民族州にある村で、この村の周辺には未解明の石碑郡が存在します。

大きい石は5メートルを超え、石碑の多くには人面や剣のようなレリーフが刻まれています。

見事なレリーフですが、込められた意味はおろか、誰が作ったのかもまだわかっていません。

科学者たちはエチオピアの先住民たちが作ったと推測しています。

1980年にはユネスコの世界遺産に登録されました。

巨大な要塞島・ポル=バジン

最後は南シベリアのテレホリ湖に浮かぶ要塞のような外観をした、ポル=バジンを紹介します。

ポル=バジンは約1300年前にはすでに存在しており、出土品からはセレンガ石が見つかり、
そこには「この王宮は葛勒可汗(かつろくかがん)が750年に原住民との戦いに勝利したのち建てられた」と記されています。

ちなみに葛勒可汗はウイグル帝国の第2代目皇帝で、可汗とは皇帝という意味です。

このセレンガ石は770年から790年の間に作られたと推定されており、碑文を残した葛勒可汗は、759年に亡くなっています。

この記録からポル=バジンは、跡を継いだ息子の牟羽可汗(ぼううかがん)が建設し、統治したと考えらています。

建設した目的については、マニ教の修道院にしたという説が濃厚です。

なぜなら牟羽可汗はマニ教を受け入れ、ウイグル国家の宗教と定めたことで有名だからです。

しかしマニ教の修道院説はまだ推測の域を出ておらず、今後の調査で新たな説が出てくる可能性も多いにあります。

おわりに

以上、世界の遺跡を15個紹介していきました。どの遺跡にも引き込まれるような謎がありましたね。

ギザのピラミッドを始め、ストーンヘンジやゴルナヤ・ショリアなど、その巨大さで魅力を放つ遺跡もあれば、
モヘンジョダロやエンゲディ都市のように高度な文明を持つ興味深い遺跡もありました。

安心して海外旅行が楽しめるようになった時は、ぜひ現地の空気を感じながら実物を見てみたいものです。

お読みいただきありがとうございました!



コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました