日ソ共同宣言をわかりやすく説明・解説(歴史的経緯から最近の動きまで)

■日ソ共同宣言とはわかりやすく説明・解説

日ソ共同宣言は、1956年に日本政府と当時のソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)=今のロシア政府との間で、主として戦争状態の終結・国交回復を目的に交わされた公的文書。
日本側は鳩山一郎首相、河野一郎農相(現河野外相の祖父)、ソ連側はブルガーニン首相、フルシチョフソ連共産党第一書記が署名しました。
日ソ共同宣言は日本とロシアの前身のソ連の議会で批准した唯一の法的拘束力のある文書でプーチン大統領も承認しています。


■日ソ共同宣言の主な内容

・日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する。

・日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。

・ソ連は日本の国際連合加盟を支持する。

・ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。

・ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。

・日ソ両国は1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に放棄する。

・日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡しする。

※この日ソ共同宣言の内容により、第二次大戦のソ連侵攻により、当時の満州在住の日本人に対するソ連軍による暴虐、シベリア強制労働等、日本の方がはるかに被害を被ったのに関わらず、賠償請求することが出来なくなりました。

■日ソ共同宣言の歴史的背景・経緯

★サンフランシスコ平和条約に参加しなかったソ連

日本政府は、第二次大戦の戦後処理の一つとして、多くの国との国交回復をはかるべく、1951年のサンフランシスコ平和条約を締結しました。

しかし、当時、すでに戦後の国際秩序を巡ってアメリカを中心とした西側陣営と対立が生じていたソ連は同条約に参加しなかったため、国交回復はもちろん、ソ連との間で法的に戦争状態が継続する状態を解消することは出来ませんでした。

★親米路線の吉田首相から日ソ国交回復を掲げた鳩山一郎内閣へ

その当時の日本政府が吉田茂首相の親米路線を敷いていたことも影響し、ソ連との間で外交交渉を行う機運はありませんでした。

日本では、1955年に保守合同して成立した自由民主党の鳩山一郎首相が政権を握りました。
鳩山一郎首相は、日ソ国交回復を最重要な政策課題と掲げて、ソ連との間で直接、交渉を行うことに意欲を示していました。

★ソ連が平和共存路線に転換

一方、ソ連では、1956年にフルシチョフソ連共産党第一書記によるスターリン批判が行われ、アメリカを中心とする西側資本主義国との平和共存路線に転換が図られました。

★日ソ直接交渉の開始

こうした日ソ両国のそれぞれの政権の状況や国際情勢が大きく変化する中で、日ソ交渉が行われました。

鳩山一郎首相、河野一郎農相がソ連を訪問し、ソ連側のブルガーニン首相、フルシチョフソ連共産党第一書記と交渉を行いました。

★北方4島の領土問題については棚上げ

国交回復、戦争状態の終結等、多くの懸案は解決されましたが、第二次大戦時にソ連が占領した択促・国後・歯舞・色丹の北方4島の領土問題については、交渉が難航。棚上げされ、現在に至っています。


■北方4島の領土問題についての歴史的背景

★日ソ共同宣言でソ連が返還すると明記したのは2島のみ

日ソ共同宣言では、”日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡しする。”ことが明文化されました。

しかし、北方4島の中で面積が大きい択促・国後島については、何も言及していません。このことが現在に至る北方領土問題の解決を難しくしている原因となっています。

★未だに平和条約を結べていない日露両国

日ソ共同宣言で”日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡しする。”という文言について、日本側としては、択促・国後島についても主権が及ぶと考えていますので、”択促(えとろふ)・国後(くなしり)・歯舞(はぼまい)・色丹 (しこたん) の北方4島が返還されない限り、平和条約締結交渉には応じられないという立場です。

一方のソ連は、択促・国後の2島に国民を住まわせ、さらに軍事基地を構築する等、自国領土化を進めています。

つまり、”2島しか返還しない”という当時のソ連から現在のプーチン大統領のロシア政府の姿勢と”北方4島を返還しないかぎり平和条約締結交渉には応じない”という日本政府の一貫した姿勢から、双方譲らず、今に至るまで日露両国は平和条約を締結できずにいます。

ロシアよりはるかに関係のよくない中国との間でさえ、平和条約を締結しているのと対照的な関係です。

★アメリカの影響

日ソ共同宣言で日本側が4島返還しなければ平和条約を結ばないとした背景には、ソ連と厳しく対立していた当時のアメリカ政府が”2島返還だけで平和条約を結ぶなら沖縄を返還しない”と強い難色を示したことも影響しているという見方もあります。


■北方4島の領土問題に関わる主な経緯から最近の動き

日ソ共同宣言以降の北方4島の領土問題に関わる主な経緯は以下の通りです。

★1973年

田中角栄首相とブレジネフソ連書記長との首脳会談で、第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)

このとき、田中首相は、ブレジネフソ連書記長に”未解決の諸問題の中に北方4島の領土問題は含まれるのか”と直接問いただしたところ、”ダー(イエス)”と回答したと後に述べています。

★1981年

日本政府、北方領土の日設定。毎年2月7日を北方領土の日に。

★1991年

ソビエト連邦解体、ロシア連邦として独立。法的に北方4島の領土問題を引き継ぐ。

★1993年

細川護煕首相とエリツィンロシア大統領が首脳会談。

北方4島の島名を列挙した上で北方領土問題をその帰属に関する問題を解決した上で平和条約を早期に締結するとして日露共同文書が発表された。(東京宣言)

★2018年

11月14日
安倍首相とプーチン大統領が首脳会談。
1956年の日ソ共同宣言を基礎として、平和条約交渉を加速させることで合意

■北方領土問題でこれまで提起されてきた提案

★2島先行返還案

歯舞群島と色丹島の2島をまず返還。
択促・国後島を継続協議

★3島返還案

国後・択促・国後島を日本に返還

★川奈提案

北方4等の北に国境線を引き、当面はロシアに施政権
※神奈川県の川奈で当時の橋本首相とエリツィン大統領との首脳会談で提案された

★面積等分案

国後・歯舞・色丹島と択促の1部を日本に返還


■まとめ

2018年11月に日本とロシアとの間で1956年の日ソ共同宣言を基礎として、平和条約交渉を加速させることで合意し、今後、交渉が本格化していくものと思われます。

これは日本にとって良いニュースではありません。

というのは、これまでみてきたように日ソ共同宣言を基礎とするということは、ロシア側からすれば”どんなに譲歩しても歯舞(はぼまい)・色丹 (しこたん) の2島のみ返還すればよいということになるからです。

実際、択促(えとろふ)、国後(くなしり)の2島については、それぞれ一定数のロシア国民が定住しているうえ、軍事基地が存在していますので、仮に返還する気があったとしてもスグにとはいかないという側面もあります。

プーチン大統領は、北方領土問題について自身の趣味である柔道にたとえて”引き分け論”にたびたび言及してきました。

今回の合意により、プーチン大統領の”引き分け論”が”歯舞・色丹 の2島のみ返還で決着”を意味していることがはっきりしてきたのではないかと思います。

ただ、ロシア国内には北方領土は、戦争の結果、ロシアの領土となったという立場の強硬派も数多く存在しており、今後、ロシア世論の動向にも大きく左右されそうです。

いずれにしても、60年以上前に締結された日ソ共同宣言に未だにこだわっていることからも、今後の交渉についても楽観できないといえそうです。



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