昭和時代に起きた凶悪事件・怖い事件の大半をリアルタイムで知る筆者が事件当時の世間に与えたインパクト・報道のされ方等を勘案して、日本で起きた凶悪事件・怖い事件ランキング★ワースト30として、事実に基づいてわかりやすく説明します。
尚、30の事件はどれも等しく凶悪ということと事の性格上、順位付するのは不適切ですので、順不同にご紹介します。
ですので、1~30の数字にはランク付けという意味はありません。
30 青酸コーラ無差別殺人事件
青酸コーラ無差別殺人事件とは、東京の一大ターミナル駅のの国鉄(当時)山手線品川駅近くの公衆電話が置かれた電話ボックス内に置かれていたコーラを飲んだ高校生を含む2人がコーラに含まれていた青酸カリによる
中毒で死亡した事件。
1977年1月、まだお屠蘇気分が抜けきれない時期に事件は起きました。
1月に東京の山手線品川駅近くの品川プリンスホテル正面の電話ボックスに置かれていたコーラを飲んだ高校生と会社員が相次いで死亡。
高校生はコーラが未開封のように見えたため、家に持ち帰りました。
ちなみにこの時期のコーラは今のようにペットボトルではなく瓶に入ったものしかありませんでした。
ですので瓶のキャップの封がされていたなら、未開封品と思っても無理のないことでした。
家で高校生がコーラを口にしたところ変な味がしたためすぐに吐き出し、病因に運ばれたものの、青酸カリによる中毒で死亡。
さらに翌日、最初の事件が起きた電話ボックスから約600メートルほど離れた場所で、中年の男性が倒れているのが発見されました。
男性のそばに飲みかけの瓶入りコーラが落ちていました。
男性はすぐに病院に運ばれたものの、青酸カリによる中毒で死亡。
このコーラ瓶からも青酸反応が検出されました。
警察は、この2つの事件について同一犯によるものだと断定、捜査本部を設置しました。
3月に今度は大阪府藤井寺市で酒屋に設置されていた電話ボックス近くにコーラが置かれていたのでビンの中身を飲もうとしました。
そのころには、品川で起きた青酸コーラ事件は、全国に知れ渡っていましたので、そばにいた知人が飲まないように静止したにもかかわらず、男性が中身を飲んだところ、意識を失いました。
すぐに病院に運ばれ、検査したところ、ビンから青酸反応が検出。
男性も一時は危険な状況でしたが、懸命の治療ののち、回復し、退院しました。
しかし、男性は退院した後、自殺。
家族の話では、この男性は”品川の事件を知っていたのにこのようなことになり恥ずかしい”と話していたということです。
東京の2件と大阪の事件の関連は不明のまま、何の手がかりもなく時効が成立しました。
犯人は、青酸カリをいれたコーラを誰かが飲んだら確実に死ぬことを承知で人目につきやすい電話ボックスに放置、無差別殺人を意図したものと思われます。
この事件でその当時、子供さんが居た家庭では、外に置かれた誰が手をつけたかわからない飲み物やお菓子に絶対に手出ししないことと口を酸っぱくして注意していたものです。
現在のように駅や街の要所に監視カメラがあったなら、すぐに犯人が捕まったのではないかと思います。
29.長岡京市わらびとり殺人事件
長岡京市わらびとり殺人事件とは、1979年5月23日に京都府長岡京市で主婦2人が近所の里山にワラビ採りに出掛けたまま行方不明になり、昼間の時間帯に殺された事件。
スーパーマーケットのパート仲間だった主婦2人は、この日ワラビ採りに出かけたまま帰ってきませんでした。
大手スーパーマーケットで共にパートで働いていたAさん(当時43歳)とMさん(同32歳)が5月23日の午後に長岡京市内の里山にワラビ採りを目的に出かけました。
Mさんは、その日の午後3時半頃に子供を保育所に迎えに行くことになっていたのに予定の時間を過ぎても現れず、家にも夜になっても戻りません。
心配したMさんの夫が野山に探しに行きましたが、23日には何の手がかりもありませんでした。
24日にはAさんの夫と捜索したものの2人を見つけることは出来ませんでしたので、警察に捜索願を出しました。
25日には警察犬も捜索に加わる大掛かりな捜索の最中、野山の山頂あたりで警察犬が反応したため、詳しく調べたところ付近でAさんの遺体が発見されました。
さらにその場所約10メートル程度登った空き地のような場所で、Mさんの遺体を発見。
Aさんの衣服のポケットからは「オワレている たすけて下さい この男の人わるい人」と勤務していたレシートの上に殴り書きしたようなメモが見つかりました。
AさんもMさんも全身をまるで格闘家に殴打されたりような骨折、包丁でさされた形跡があり、体に酷い損傷が確認されました。
犯行に使用された包丁からは、指紋は検出されず、販売ルートも解明されませんでした。
捜査本部を設けて捜査したものの、1994年5月24日に時効が成立しています。
この事件の犯人ではないかとされる不審な人物が事件の前年1978年の同じ時期に目撃されています。
目撃者の主婦によれば
”里山で突然見知らぬ中年男に「奥さん、ワラビ採れますか」と声をかけられた。この中年男の手には包丁が握られており、
驚いた主婦は少し離れた場所で山菜を採っていた夫と子供のところに走って逃げ難を逃れたということです。
不審な人物は身長170cmくらい。年齢は45歳前後。
目撃された場所は事件現場から西南約300mほどにある雑木林の中だったとされています。”
この不審な人物の似顔絵が作成されましたが有力な手掛かりは得られませんでした。
ここから先は事件が起きたこと以外は真偽不明ですが、同じ長岡京市内でやはり女性が殺される事件がワラビ採り事件からちょうど5年後の1984年5月15日 同じような時間帯の午後2時50分頃に起きています。
長岡京市内の主婦Kさん(当時48)が、自宅で首や背中をメッタ刺しにされたうえ、布団に包まれた状態で火をつけられ殺害されたというのが事件の概要です。
ここから先は真偽不明ですがこのKさんが、わらびとり殺人事件が起きた日に被害者のAさんとMさんに途中まで同行していたという情報が流れました。
この2つの事件の犯人の血液型がどちらもO型であることが確認されているうえ、殺害方法も似通っていることもあり、
全くのでたらめではないのではないかという見方もありましたが、時効となり、真相が解明されることがなく現在に至っています。
長岡京市はそれほど人口の多い市ではあることを考えると同一犯という見方も有力です。
仮にこの事件がすべて同一犯による犯行とすれば死刑に相当するような事案であることは間違いありません。
このような凶悪な犯罪を犯した人物が何の罪に問われることもなく、日本のどこかで生き延びているかもしれないということに慄然とさせられます。
28 トリカブト保険金殺人事件
トリカブト保険金殺人事件とは、被疑者である神谷力が5年間に結婚した妻に本人の知らない間にサプリメントと称して猛毒のトリカブト等を調合し少量ずつ飲ませることで
死に至らしめ、保険金をだまし取った事件。
むかし、イギリスの推理小説で夫を殺すため毎日、朝食の紅茶に少量の毒を混ぜて飲ませることで殺人を果たすというストーリー展開を読んだことがありますが
それを地で行くような犯行の手口、殺すために結婚したとしか思えない犯人の冷酷さ、人を殺すための毒の研究が尋常でなく毒物の専門家顔負けのレベルまで到達していたことに対して世間は戦慄を覚えたものです。
★トリカブト保険金殺人事件の経過
1965年
1人目の看護師と結婚のち、離婚
1971年
2人目の女性と同棲ののち、神谷が受取人の1,000万円の保険をかけて結婚。
1981年
1人目の妻が心筋梗塞のため38歳で死亡
1985年
2人目の妻が急性心不全で死亡
1985年
3人目の妻となる池袋の店で知り合ったホステスと2月に結婚
1986年
妻が旅行先の石垣島で大量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみだしたため救急車で運ばれるものの死亡
死因は急性心筋梗塞。
そもそも心臓に持病がない限り、若い女性が心筋梗塞で亡くなるのは極めて稀とされています。
沖縄県警察が、神谷の承諾のもと、行政解剖を実施。
解剖にあたった大野琉球大学医学部助教授が、妻の死因を急性心筋梗塞と診断したものの
急死につながる明らかな異常が無かったことから、不審に思い、死亡した妻の心臓と血液30ccを保存。
不審に思ったことは死因だけでなく、3人目の妻が亡くなったのに神谷が妙に冷静だったことも大きかったということです。
この頃から、妻の友人等が結婚した妻がいずれも若くして急死していることやその行動について不審な点があるとして、警察やマスコミ、新聞社などに訴え始めたことで
これまでの経緯とともに神谷の名前が週刊誌等に大々的に報じられるようになったことで世間の耳目を集めるようになりました。
トリカブトというそれまで聞いたことのない植物とその毒に関する認知度も一度にあがりました。
友人らの話では3人目の妻は亡くなる少し前から神谷が自分の体に合うように特別に調合した薬を飲んでいたということも確認されています。
さらに妻の保険金をめぐる裁判の過程で、
①妻は神谷が受取人である複数の生命保険に加入しており、その金額が、4社で合計1億8,500万円という巨額なこと。
②妻は亡くなる20日前に保険に加入、掛金は1度しか支払わないなど、保険の加入方法に不審な点が判明。
民事裁判で石垣島で妻の検死を担当した大野琉球大学医学部助教授が、妻の死因が毒物による可能性があると証言。
1991年5月
警視庁が神谷を別の横領事件で逮捕
捜査の過程で、5年前の妻の死が保険金目当ての殺人だった可能性が浮上。
7月1日に警視庁は神谷を殺人と詐欺未遂で再逮捕。
その間、大野琉球大学医学部助教授は毒物に関する研究を独自に進めており、妻が急死した原因がトリカブト毒であることを突き止めていました。
さらに保存していた心臓や血液を東北大学や琉球大学で分析した結果、トリカブト毒が検出され、妻が毒殺されたのは確実に。
トリカブトとは、日本全国で見られる紫色の花が咲く野草ですがその根に猛毒が含まれていることで知られています。
また、神谷にトリカブトを69鉢売ったという花屋が現れたこと。
警察が神谷の部屋を捜査した結果、畳からトリカブト毒が検出されました。
さらに、神谷に似たような大学助教授と名乗った人物にクサフグを1000匹以上売ったという漁師が現れたことから、警視庁は琉球大学に保存されていた妻の血液を、
調べたところ、フグ毒(テトロドトキシン)が検出されました。
要するに神谷は、トリカブトの毒とフグ毒を調合することでサプリメントを飲んでもすぐには死なず、一定の時間が経過してから死ぬように仕組んでいたのです。
以上のようなことが裁判で事実認定され、神谷は無期懲役が確定。
その後、病気で獄中で2012年に死亡しています。
27 広島一家失踪事件
広島一家失踪事件とは、2001年6月に広島県世羅町で起きた山上さんという家族全員と飼っていたペットが突然行方不明になった事件。
事件当時、家には車がなくなっていたものの、免許証や旅行道具は家の中に置き去りされていました。
またテーブルの上には当日の朝食がそのまま手つかずの状態となっていました。
警察が家族の周辺を調べてみても人間関係に問題があるわけでもなく、また借金を抱えているというような経済的な問題も確認できませんでした。
1年後、2002年9月に近くのダムの湖底から山上さんの車が発見され、中から家族4人と犬の遺体が見つかりました。
警察は、状況から無理心中と判断しましたが、地元の住民を中心に無理心中ではないのではないかという見方も根強く残っています。
確かに無理心中するのに朝食がそのままになっていたり、犬も連れていくという行動にも不可解な感じがします。
事故だとしても、なぜ、車の免許を持参しなかったのかという疑問が浮上します。
それに無理心中だとしても、ありがちな家族や人間関係、借金等の経済問題、病気等の動機がありません。
失踪事件の多くは、消息不明のまま生きているのか・死んでいるのか不明というのが通り相場です。
しかし、広島一家失踪事件は、死亡した事実が判明したことでかえって謎が深まった事件といえそうです。
26 福岡久留米看護師連続保険金殺人事件
福岡久留米看護師連続保険金殺人事件とは、2002年に福岡県久留米市で吉田純子・堤美由紀・石井ヒト美・池上和子の
元看護師の4人が共犯して起こした保険金殺人事件です。
凶悪犯の大半は男性ですが、当然ながら女性にも凶悪犯はいます。
その代表的な存在が福岡久留米看護師連続保険金殺人事件の主犯格の吉田純子です。
最初の事件は、1998年に起こりました。
吉田純子の看護婦仲間の池上和子の夫に注射器で空気を注入、殺害。
空気を注射すると死亡するというのは医療従事者であれば常識の範疇ですので、吉田らはその常識を犯行に悪用したといえます。
この時、吉田は池上に”夫が浮気していて、しかも池上和子に保険金5000万かけている”と嘘をつき
池上をそそのかし、犯行を実行させました。
その後、”夫の借金の返済を代わりに処理してあげる”として、吉田が保険金3450万円を手にしています。
味をしめた吉田は、1999年に石井ヒト美の夫を注射器で空気を注入、殺害。
このときの保険金3300万円も吉田が巧妙に嘘をついて石井を騙して吉田が手にしています。
さらに同じ手法で堤美由紀の実母を殺害しようと企てましたが、これは失敗に終わっています。
ここまで読まれたかたの中には、なぜ池上も石井も簡単に吉田に騙されたのか?という疑問を抱かれた方も少なくないと思います。
吉田は、この看護婦4人グループの女王格にような存在で、しかも同性愛の関係にありました。
ですので、犯行以前から吉田と3人は主従関係にあり、逆らうことが出来なかったのです。
2001年に石井が吉田からの脅迫を警察に相談したことで、事件が明るみにされました。
吉田は2002年4月17日に逮捕され、その後の裁判で死刑判決が確定。
2016年3月25日に死刑が執行されています。
女性に死刑執行されるのは吉田純子で戦後5人目です。
一般に女性の凶悪犯の特長は、身内・家族等、身近な存在を対象にした主として憎しみを理由とした犯罪が多いことと、非力なこともあり毒物や薬物を
使用することが男性に比べて多いことです。
福岡久留米看護師連続保険金殺人事件は、夫を対象、空気を注射とこの2つの条件がそろった典型的な女性による凶悪な事件といえそうです。
この事件をモチーフにした『黒い看護婦―福岡四人組保険金連続殺人―』(新潮文庫刊)が発行され、2015年にはフジテレビで大竹しのぶ主演の”黒い看護婦”
というタイトルでドラマ化されています。
25 熊取町7人連続怪死事件
熊取町7人連続怪死事件とは、1992年4月~7月にかけて大阪府泉南部の熊取町で起きた事件です。
★事件の経過
1992年4月29日
17歳のAさんが熊取町内のため池で転落死
1992年5月29日
Aさんと同じ中学のBさんが急性心不全で死亡
1992年6月4日
AさんとBさんの先輩のCさんがタマネギ小屋で自殺
1992年6月10日
Cさんの親友のDさんが自殺
1992年6月17日
Eさんが熊取町内の農作業小屋で首吊り自殺
1992年6月25日
Eさんが熊取町内の農作業小屋で首を吊って自殺
1992年7月2日
19歳の女子大生Gさんが、町営グランド近くで胸から血を流した状態で発見
もし、これが仮に人口も面積もけた違いに大きい東京都内で起きたとしても大騒ぎでしょう。
人口4万人ほどの熊取町のしかも半径1.2kmの狭い範囲で2か月たらずの期間に7人も自殺するなんて、集団自殺ならまだしも考えられない出来事です。
さらにAさん、Bさん、Cさん、Dさんはお互い知人といえる関係でDさんととEさんも知人。
この7人とも自殺の動機や遺書が見つからなかったということも特筆すべきことです。
ただ、気になることはこのうちの何人かは、死の直前、”車に追いかけられた”と話していたということです。
しかし、警察は、いずれも事件性はないとして自殺・事故として処理しました。
従って、熊取町7人連続怪死事件は、単なる偶然に起きた事件ということにされ、当時の町民の誰もが感じた恐怖や不可解な思いは
解消されないまま現在に至っています。
24 大久保清連続殺人事件
大久保清連続殺人事件とは、1971年に起きた戦後最大の連続女性誘拐殺人事件。
大久保清は、群馬県内でベレー帽を被って美術教師になりすまし、20代前半までの若い女性ばかりを狙い、”絵のモデルになりませんか”と言葉巧みにドライブに誘って殺害、連続8人もの暴行殺人を働きました。
大久保は、群馬県の自家用車で前橋や高崎に行き、若い女性に声をかけ、応じた女性とデートを重ねるという犯行のパターンでした。
この当時は、今と異なり、自動車自体がまだ珍しかったということも事件の背景にあると思います。
デート中にトラブルになった女性を強姦、殺害、死体遺棄。
わずか1ヵ月半の間に8人もの女性が被害になったということで日本国民に強い衝撃が走りました。
特に若い女性は恐怖でパニック状態というべき状況でした。
大久保は、1967年におこした強姦事件で懲役3年6カ月の刑を言い渡されましたが、刑務所で模範囚として表彰されたことから
事件当時は仮釈放されていました。
さらに大久保が大学生の時にも同様の事件を起こしています。
もし大久保が仮釈放されていなければこのような事件は起きなかったはずです。
大久保は7人目の被害者の兄からの通報で逮捕。
その後1審で1973年に死刑判決。
1976年1月に執行されています。
23 埼玉愛犬家連続殺人事件
埼玉愛犬家連続殺人事件とは、1993年4月から8月に埼玉県熊谷市で発生した連続殺人事件。
熊谷市内で犬をペットショップ「アフリカケンネル」を経営していた元夫婦の関根元と風間博子は、事業に失敗したため多額の借金を負いました。
そのため、つがいのシベリアンハスキーを客に法外な価格で売りつけるという詐欺まがいの商法を考え付き、実行していました。
売買契約の際には、生まれた子犬を高価で買い取るという約束でしたが、実際には病気がある等、難癖をつけて買い取りはしないというようなことを繰り返しました。
そのうち、この詐欺商法に気が付き返金を迫った客を対象に犬の安楽死に使用する薬「硝酸ストリキニーネ」をカプセルに入れ栄養剤といって飲ませることで犯行を実行。
このカプセルを飲んだ客はほぼ即死。
トラブルになった顧客4人が犠牲となりました。
その他にも関根周辺で少なくとも3人が消息不明となっています。
関根は「ボディを透明にする」と称して、犠牲者をまるでサイコロステーキのように解体、山林や川に遺棄、証拠隠滅を図りました。
後に事件に協力させられていた役員が犯行を供述したことで被害者4人の遺体の一部が発見され、関根と風間が逮捕。
元夫婦は共に死刑判決が確定。
関根は2017年に獄中で病死。
風間は現在も冤罪を訴えています。
一般的に犬や猫を可愛がる人には悪い人はいないというような認識がなされていたために、この事件は特に愛犬家に大きな衝撃を与えました。
皮肉なことに犬は可愛がっており虐待するようなことはなかったようです。
怪談和尚の京都怪綺談の著書である京都光照蓮久寺住職の三木大雲氏は、埼玉の大学に通っていた時に「アフリカケンネル」でアルバイト
として関根に何度か接触しています。
その度ごとに、コーヒーを勧められ、いずれも3本の内の1本を選び飲んでいます。
そのうちの1本には必ず毒が混入されていたということです。
三木氏は、関根に会うたびに”神や仏はいるのか”と尋ねられたと語っています。
もしかしたら、三木氏が仏教の勉強をしていることで試したのではないかと思われます。
結果として、三木氏は、いずれも”はずれ”をひいたことで死を免れたと後に語っています。
22 名張毒ぶどう酒事件
名張毒ぶどう酒事件とは、1961年3月28日夜、三重県名張市葛尾の公民館で、地元の生活改善クラブ「三奈の会」の懇親会が行われている最中に起きた事件で
女性会員用に用意されていたぶどう酒の中にニッカリンTという農薬が混入されており、乾杯と同時にそれを飲んだ女性会員のうち5人が死亡、12人が傷害を負いました。
逮捕されたのは鉄道会社の職員の奥西勝被告。
犯行の動機としては、被害者の中に奥西死刑囚の妻と愛人がおり、「三角関係を解消する為」とされました。
奥西被告は、今風でいえばイケメンで大変、女性にモテたそうです。
ですので三角関係は事実だったようですが、一方でそれだけのために大量殺人に結び付くようなことをするのかという疑問も有力でした。
名張毒ぶどう酒事件は、事件の凶悪性とともにその後の被告の無罪の主張と裁判の判断、そして9度にわたる再審請求と裁判史上においても
まれにみる異例の展開となっています。
被告人は当初容疑を否認していましたが、その後、否認、自白と変転し、捜査の最終段階で再び否認、以後一貫して無実を訴えています。
そのため判決も第一審の津地裁で無罪、控訴審の名古屋高裁では死刑と2転3転していましたが、1972年に最高裁判所は死刑判決をくだしました。
被告は無実を訴え続けたものの、死刑判決から43年後に89歳で死亡しています。
21 世田谷一家殺人事件
世田谷一家殺人事件とは、世間があと1日で20世紀から21世紀にかわるということで大騒ぎしていた2000年12月31日に東京都世田谷区の閑静な住宅で起きた一家4人すべて殺された事件です。
隣に住んでいる親族が31日の午前中に呼び鈴を押しても反応がないので不審に思ったことで事件が発覚。
後の調べで、犯人は犯行後しばらく家に滞在して、冷蔵庫にあったアイスクリームを食べたり、パソコンでなぜか劇団四季のHPにアクセスした形跡が確認されています。
犯人は犯行に使用した包丁で自分も怪我を負ったこと、靴のサイズが28センチであることも判明しています。
また、事件の翌日、東武日光駅で手に大怪我をした20代と思しき男性が居たことが分かっていますが、その後の足取りは不明のままとなっています。
NHK特集の未解決事件で、事件当日の深夜、犯行現場から20代と思われる人物が道路に急に飛び出してきたという目撃証言がありましたが、その後、事件の展開に結び付いたという
ような続報はありません。
当時、犯人のものと思われる遺留品が複数確認されたことや犯罪の内容から怨恨説も有力で短期間に解決されるものと思われましたが、現在に至るまで犯行の動機を含め
有力な手掛かりは得られていません。
この間、犯人外国人説等、マスコミを中心に真偽の定かではない情報が無数飛び交いましたが、それらが犯人に迫る情報になったことは一度もありません。
被害に遭った2人の幼い子供たちももし生きていたら今頃、立派な成人となっていたことを考えると胸が痛みます。
同時に死刑間違いないような凶悪な犯罪を手掛けた犯人が日本のどこかで普通に生活していることを想像するだけで恐怖を覚えます。
20闇サイト殺人事件
闇サイト殺人事件とは、2007年8月にに名古屋市で帰宅途中の磯谷利恵さんが3人の男に拉致、監禁、脅迫された挙句、殺害された事件です。
犯人の川岸健司・神田司・堀慶末の3人は、もともとお互い全く知人でも友人でもありませんでした。
犯行グループは、インターネット上の所謂「闇の職業安定所」で犯行の数日前に知り合い、犯行計画を検討しています。
その際、各自が自分の過去の犯罪歴や犯罪手法を明らかにすることで主導権を握ろうとしたということです。
その結果、”金品を強奪するには、堅実に貯金してそうな若くて真面目そうなOL”を襲うことが最も取り組みやすいという結論となり、
実行に移すべく金槌・ロープ・包丁などを用意しました。
磯谷利恵さんは、「たまたま通ったから」という理由だけで、犯人グループの標的にされ、車に拉致され、現金6万2千円とキャッシュカードを強奪され
た後、命乞いを無視して殺害。
遺体を岐阜県瑞浪市の山中に遺棄しました。
事件後、主犯格の川岸健治が、死刑を免れたいという理由から自首。
川岸の自首によって神田司・堀慶末も逮捕されました。
主犯格の川岸は早期逮捕に貢献したということで無期懲役。
神田と堀は死刑が言い渡され、神田は2015年に死刑が執行されています。
闇サイト殺人事件は、犯罪をするためだけにネットで知り合い、それを躊躇なく実行する凶悪な人間が存在するということに
ついて、世間が戦慄を覚えました。
昭和を知る世代からすれば、一昔前なら全くあり得ないような犯罪です。
インターネットの普及で便利な世の中になった一方、悪い方に利用されるとこんなに凶悪な事件の温床にもなる
ということについて、闇サイト殺人事件は改めて気が付かされたといえます。
19 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は、元号が昭和から平成に代わろうとしていた1988~1989年にかけて東京都北西部・埼玉県南西部で発生した幼女ばかりを狙った誘拐殺人事件。
被害者は4歳から7歳までの4人の幼女で、誘拐後に暴行され、その後殺害されています。
犯人の宮崎勤(当時24歳)は、殺害した少女の遺骨を遺族の自宅に送り付けたり、「今田勇子」という筆名で全国紙に犯行声明文を送る等
それまでの事件にはみられない行動で、世間に強い衝撃と恐怖を与えました。
この時期、特に小さな女の子を持つ家庭は、文字通り恐怖のどん底に突き落とされたような状況となっていました。
1989年7月に八王子で幼い姉妹にわいせつな行為をしているところを父親に発見され、逮捕。
その後の捜査、事情聴取により宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の全容が明らかにされました。
逮捕時、こんな凶悪な犯罪をした宮崎勤とはどんな男なのか全国民の注目が集まりました。
宮崎勤は顔を隠す素振りも悪びれた表情をするわけでもなく、外見は青白い顔に度の強い眼鏡、そして眼鏡の奥の焦点が定まらないような,虚ろな目が印象的で、
逮捕されたことによるショック、事件に対する反省や後悔のような表情は全く読み取れませんでした。
いわゆる悪そうな顔とは程遠いことが逆に恐怖を呼び起こした感じがしたものです。
宮崎勤の犯行動機として、手に障害があることで、大人の女性とうまくコミュニケーションがとれずに幼女に興味を抱いたのではないか等の推測がなされました。
また、事件解明の過程で、宮崎勤の部屋の光景がテレビや新聞にそのまま公開・放送され、その部屋に無数のホラー映画関連のビデオや
ロリコン関係の本等が散乱していることで、世間の耳目を集めました。
この事件を契機にいわゆる”オタク”の存在が広く知られるようになり、現在に至っています。
部屋からは、犯行の経緯を録画したビデオテープも発見され、宮崎勤の異常性が改めてクローズアップされました。
犯行の異常性から、宮崎に対して精神鑑定が行われましたが、責任能力有りと判断されたことで死刑が確定。
ただし、裁判の過程で、宮崎は”自分はねずみ男の指令に従った”と意味不明なことを供述したことでその異常性格に改めて世間の耳目を集めました。
2008年に死刑執行。
宮崎の家族は、地元で名士とされていた父親が橋から飛び降りて自殺、妹も婚約が破談と悲惨な運命を辿ることになりました。
18 神戸連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)
神戸連続児童殺傷事件とは、1997年2月から5月にかけて、神戸で起きた平成最悪の少年による連続児童殺傷事件。
事件の過程で、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗り、犯行声明文を送りつけたり、被害者の上半身を校門にさらすなどの犯行内容に日本全国に強い衝撃を与えました。
また、世界的にも残虐性の高い事件として欧米のマスコミでもモンスター級の犯罪として大きく報じられました。
★神戸連続児童殺傷事件の経緯
ハンマーで小学生の女児2人を暴行
金槌で小学生の女児の頭を殴り殺害
ナイフで小学生の女児の腹部刺傷
小学生の男児を暴行・殺害
被害者男児の口に犯行声明文を挟み込み校門に晒す
東京と埼玉でやはり子供を対象に犯行を重ねた宮崎勤との違いは、少年Aは女児ばかりでなく男児も対象にしていたことです。
この点で宮崎勤の犯罪動機と大きく異なることが確認できます。
なかでも被害者の少年の口に「声明文」を挟んで中学校の正門前に置きざりにしたという行為は、それまでの犯罪には見られない凶悪な行為で世間を震撼とさせました。
さらに地元の神戸新聞に「挑戦状」が郵送されるなど、凶悪なだけでなく強い反社会性も感じられたため、当初、犯人は成人男性ではないかと推測されていました。
実際、当時新聞やテレビはは、頭部が発見された早朝に中学校近くをうろついていたとされる「黒いポリ袋を持った20代から30代の体つきのがっしりした男性」を有力な目撃情報として
繰り返し報じていました。
犯人が逮捕されたとき、未成年者だったことが判明する日本国中に戦慄が走ったものです。
逮捕当日は、香港がイギリスから中国に返還されるということが大きなニュースでしたが、それを全て吹っ飛ばすような大ニュースでした。
犯人の少年Aは自らを「酒鬼薔薇聖斗」(さかきばら・せいと)と称し、以下のような声明文をマスコミ・捜査機関等に送りつけました。
酒鬼薔薇聖斗の声明文は、直筆で書かれており、その癖の強いおどろおどろしいような字体も強く印象に残っています。
★「酒鬼薔薇聖斗」の声明文
さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇
声明文のうち、SHOOLL KILLは少年Aの誤記で正しくはSCHOOLL KILLです。
事件の進行の裏で、警察は聞き込みを中心に捜査を進め、少年Aが動物への虐待行為を度々行っていたという情報や被害者男児と顔見知りであることなどから、
少年Aを犯人と看做していましたが未成年ということもあり、慎重に捜査が進められていました。
容疑が固まった1997年6月に少年Aが逮捕されました。
少年Aは、未成年ということで通常の裁判ではなく、神戸家庭裁判所の判断により医療少年院送致が相当と判断されました。
★その後の少年の処遇
1997年10月13日
神戸家庭裁判所はAを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
2001年11月27日
治療が順調であるとの判断から、東北少年院(中等少年院)に移る。
2004年(平成16年)3月10日
成人したAは少年院を仮退院
2005年(平成17年)1月1日
Aの本退院が認可される。
本退院後の少年Aについて週刊文春が接触に成功、記事にされたことで複雑な反響を呼び起こしました。
少年Aのケースを契機に少年法の見直しが進みました。
17 大阪教育大附属池田小学校事件
大阪教育大附属池田小学校事件は、2001年6月8日に大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷事件。
宅間 守が授業時間中の池田小学校の校内に侵入、授業を受けていた児童(いずれも1年生・2年生)8人を出刃包丁で殺害、15人(児童13人・教職員2人)を負傷させるという
日本の犯罪史上稀に見る無差別大量殺人事件として日本のみならず世界に衝撃を与えました。
★事件の経過(大阪教育大附属池田小学校HPから引用)
2001年6月8日午前10時過ぎころ、宅間 守(以下犯人)は自動車で附属池田小学校南側正門前に至ったが、同所の門が閉まっていたことから、
そのまま通り過ぎ、同所から離れた自動車専用門から、出刃包丁及び文化包丁の入った緑色ビニール袋を持って小学校敷地内に立ち入った。
2年南組の担任教員は、体育館の横で、犯人とすれ違い軽く会釈をしたが、犯人は会釈を返さなかったが、教員は特に不審者という認識を抱かなかった。
犯人は、10時10分過ぎ、2年南組テラス側出入口から担任教員不在の2年南組教室内に入り、出刃包丁で5名の児童を突き刺し死亡させた。
10時15分ころ犯人は2年南組の教室テラス側出入口からテラスに出て東に隣接する2年西組の教室に向かい、テラス側出入口から同教室に入った。
犯人は教室に侵入する際大きな物音をたてたが、2年西組の担任教員は気付かなかった。
犯人は侵入したと同時に、3名の児童を次々と突き刺し、うち1名を死亡させた。
犯人に気付いた、2年西組の担任教員は、悲鳴をあげ、校内放送を用いて誰かに知らせようとしたが、利用を停止した。
その後、同教員は、犯人が児童に向かって包丁を突き刺すのを見たが、児童の避難誘導をせず、警察へ通報するため廊下側前のドアから出て事務室に向かって廊下を走った。
途中、同教員は、廊下で倒れて苦しんでいる児童を見たが、そのまま事務室に飛び込み、10時18分(警察より確認済み)、110番に通報。
同教員は、事務室にて110番に通報した際、警察に事件の詳細を聞かれ、対応に時間がかかった(約8分間)。
そのため、警察からの救急車の依頼が遅くなり、警察が、救急車を要請したのは、通報を始めてから5分後であった。
同教員不在の間に、犯人は逃げる児童を追い回し、教室内、出入口付近、廊下で5名の児童を突き刺し又は切り付け、うち1名の児童を死亡させた。
次いで、犯人は、2年西組教室後方廊下側出入口から廊下に出て、東隣にある2年東組に向かい、10時15分過ぎころ、2年東組廊下側出入口から教室内に入り、
児童2名を出刃包丁で突き刺し又は切り付けた。
犯人は、教室内で状況を見た2年東組の担任教員から椅子を持って追い掛けられたことから、テラス側出入口に向かって逃げたが、
その途中で教室後方にいた児童1名と、さらに同出入口付近で別の児童1名を突き刺した。
犯人は、教室テラス側出入口からテラスに出たところ、通り掛かった1年南組の担任教員にタックルされ、取り押さえられそうになったことから、
同教員を殺害しようと考え、出刃包丁で突き刺した。
その際、犯人は2年東組の担任教員から椅子を投げ付けられたものの、これを意に介さず、テラス上にいた児童を見付けて、
その児童らを西方向に追い掛け、10時20分ころ、犯人は、1年南組教室内に児童の姿を認め、同教室テラス側出入口から同教室内に入った。
それまでの間、3名の教員が1年南組の横を通過したにもかかわらず、1年南組にいた児童に危険を知らせ、避難するように声かけできておらず、避難誘導が行われなかった。
犯人は、1年南組教室テラス側出入口から担任教員不在の1年南組教室内に入り、出刃包丁で3名の児童を突き刺し又は切り付け、うち1名を死に至らしめた。
さらに、別の児童1名を同教室テラス側前方に追い詰め出刃包丁で突き刺した際、駆けつけた2年南組の担任教員に背後から出刃包丁を持っている右腕をつかまれたが、
同教員目掛けて出刃包丁で切り付け、引き続き、出刃包丁を左手に持ち替え、倒れている同児童を突き刺した。
犯人は、10時20分ころ、2年南組の担任教員及び副校長によって殺人未遂の現行犯人として逮捕され、間もなく、現場に到着した警察官に引き渡された。
事件後、上記のように一部で教員が適切な行動をとらなかったという批判を浴びることになりました。
ただ、当時の状況から小学校で凶悪な犯罪を実行する人物が侵入するとは考えもしなかったと思いますので、このような突発的な凶悪な事件で
全てに適切な行動・処置を教員に求めることは酷だという感じはします。
宅間 守は、幼少の頃から乱暴者であったことに加え、過去のトラブルや自分の勝手な思い込み等により、エリート校である大阪教育大附属池田小学校に一方的に恨みを抱いていたこと、
さらに死刑願望があったことから、前例のない凶悪な事件を起こしたものとみられています。
この事件を契機に全国の小学校の警備が根本的に見直されることになりました。
1審判決で死刑となり、その後上告せず、2004年9月14日に死刑執行されています。
1審判決から1年足らずでの死刑執行は異例なことです。
16 秋葉原通り魔事件
秋葉原通り魔事件とは、2008年6月8日の日曜日の昼下がりのにJR秋葉原駅(通称アキバ)近くで実施中の歩行者天国に加藤智大(当時25歳)が2トントラックでブレーキもかけないま、猛スピードで暴走、
通行人を5人を跳ね飛ばしたうえ、車から降り、奇声を上げながら持参したダガーナイフで次々と通行人を刺し、7人が死亡、10人が重軽傷を負った事件。
加藤智大は、その場で現行犯逮捕。
秋葉原通り魔事件は、7人が死亡という戦後最悪の通り魔事件ということで当時の国民に強い衝撃と恐怖を巻き起こしました。
また、治安が良いとされる日本で起きた凶悪な事件ということで海外メディアでも大きく報じられました。
事件当日は日曜日で、事件現場となった場所はアキバの中心部で多くの買い物客や観光客で歩行者天国の実施中の道路は満員電車のような状況でした。
そのため、事件直後に多くの人々がパニック状態になり、また負傷者が横たわる周囲が血の海になるなど悲惨な状況に陥りました。
筆者も事件現場はよく行く場所ですので、自分も犠牲者になっていた可能性があると考えただけで戦慄を覚えたものです。
加藤智大の犯行動機として、短期間で職場を変わっていることで労働環境への不満、学歴コンプレックス、また友人関係の乏しさ等、多数の専門家からの分析がなされました。
しかし、加藤はそうした分析をすべて否定、でたらめな分析をするなとまで強弁していました。
あくまでも自分の書き込んだ掲示板に荒らしに対する報復だと自ら明らかにしています。
裁判では、弁護側が精神状態を理由に死刑を回避することを争点に争いましたが、2015年の最高裁判決で死刑が確定。
この事件で、毎週日曜日に秋葉原駅付近で実施されていた歩行者天国が長らく中止されることになりました。
また、犯行に利用されたダガーナイフの販売も禁止される等、多方面に影響を与えました。
尚、加藤の実弟は、この事件の後に自殺しています。
15 新宿バス放火無差別殺人事件
新宿バス放火無差別殺人事件とは、日本一の繁華街の新宿駅前の停留場で発車を待つばかりの路線バスに突然、男がバスの外からガソリン4リットルと火をつけた新聞紙を投げ込み、6人を死亡させた事件。
乗客でいっぱいのバスに何の前触れもなく通りすがりの男が人ガソリンを投げ込むという犯行に当時、日本中に戦慄が走りました。
1980年8月19日、夜9時すぎの新宿駅西口のバス発着場に停車していた新宿発中野車庫行きのバス車内に、30人ほどの乗客が乗車していました。
そこに突然、ガソリン4リットルと火をつけた新聞紙が後部座席から投げ込まれたため、後部座席に座っていた親子2人と20代の女性が即死。
6人が死亡し、14人が重軽傷という大惨事となりました。
被害者の親子は、当時の巨人軍の本拠地だった後楽園での巨人対ヤクルトを観戦、帰宅途中に事件に遭いました。
事故後バスは現場検証のため、その場に放置されていましたが、バスの窓ガラスは粉々に飛び散り、手すりは原型をとどめないほどに曲がっていました。
犯人は、土木作業員の丸山博文(当時38)。
犯行の態様から、精神鑑定にかけられ,犯行時、被害妄想の傾向にあったことが認められるとして死刑が回避され、
1986年東京高等裁判所で無期懲役が確定。
後に、1997年10月、丸山は刑務所内で首を吊って自殺しています。
14 松本サリン事件
松本サリン事件とは、1994年6月27日に長野県松本市で発生した戦争でもその使用が禁止されている神経ガスの猛毒サリンを用いたテロ事件です。
猛毒サリンは吸い込むだけでなく皮膚に触れただけでほぼ即死する毒ガスとされ、恐れられています。
6月27日から翌日6月28日の早朝にかけて、松本市内の閑静な住宅街でサリンが散布され、7人が死亡、600人が負傷しました。
事件当時の新聞の見出しは、この事件の原因がよくわからず”各紙とも”松本で謎の毒ガスで7人死亡”と大見出しだったことを記憶しています。
6月28日にこの事件の通報者である河野氏を警察は重要参考人として長時間聴取しました。
また家宅捜索も行い、河野宅にあった薬品類を押収しています。
事件の原因については、ガスがなんであるのか不明でしたが7月3日に特別な化学的な調査方法で散布された物質がサリンであると判明しました。
ちなみに、このサリン、1980年に勃発したイラン・イラク戦争で主にクルド人に対して使用され大量の市民が死亡したことで、国際的に強い非難を浴びました。
サリンは、1938年にナチス・ドイツで開発されましたが、1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約により、現在は多くの国で製造と保有が禁止されています。
重要参考人とされた河野宅には、普通の家にはまず置いていないような農薬を中心とした特殊な薬品類があったこと、事件現場から近いことから、警察が河野氏を容疑者と断定したようですが
これがとんでもない誤りでした。
正直なところ、筆者も当時のテレビ報道で河野氏の家の中の薬品類が多数並んだ戸棚をみて、容疑者に違いないと思ったものです。
後に河野氏宅にあった農薬からはサリンは合成されないことが化学的に証明されています。
事件を起こしたのはオカルト系の新興宗教のオウム真理教で、当時、松本道場の建設をめぐり、地元住民と差止請求訴訟を争っており、その妨害・混乱を目的としたものということが
後に判明しています。
当時、オウム真理教は認知度が高くなく、信者周辺や松本市の住民のように同教団とトラブルを起こしている人を中心に知られている程度の存在でした。
河野氏は事件後しばらくは、新聞やテレビで犯人扱いのような報道をされたうえ、河野氏の夫人も事件で意識不明となり、2008年に死去しています。
松本サリン事件は、サリンという戦場ですら使わないような猛毒を噴霧して多数の人を死に至らしめたという恐怖と同時に何の落ち度のない市民がこのような重大な事件の容疑者に
簡単にされてしまい耐えがたい苦痛・人権侵害を与えられる可能性があることを示しました。
ただ、この時にオウム真理教を徹底的に捜査していれば、この数か月後に起きた地下鉄サリン事件を防げたのではないかと思います。
13 浅沼稲次郎日本社会党委員長暗殺事件
浅沼稲次郎暗殺事件とは、当時野党第一党だった日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂で行われていた与野党の討論会の最中に突然、壇上に駆け上がった少年に刃物で刺され、死亡した事件。
日本社会党は、今の立憲民主党よりもはるかに巨大で特に労働組合を中心とした労働者に影響力のある党でした。
また、浅沼稲次郎氏はその恰幅の良い体格やわかりやすい演説で演説百姓・人間機関車として親しまれ、東京下町深川のアパートを住居とする等の庶民的な人柄から、日本社会党支持者ばかりでなく
広範囲の日本国民から人気のある政治家でした。
その浅沼氏がNHKラジオで生中継していた討論会で突然、凶刃によって命を突然、奪われたのですから、その衝撃は、計り知れないものがありました。
この事件は、討論会の司会を担当していたNHKアナウンサーにより、”今、浅沼委員長が暴漢に襲われました”とリアルタイムで報じられました。
犯人が17歳の右翼志向の少年だったことにも日本国民は衝撃を受けました。
外国に比べ政治テロが少ないとされる日本ですが、日本の政治テロというと真っ先にあげられるのがこの浅沼稲次郎暗殺事件です。
当時は、今のように政治家に対する警護が厳しくなかったため、このような凶悪な政治テロが起きてしまいました。
尚、犯人の少年は後に自殺しています。
この事件を題材にノーベル賞作家の大江健三郎氏は”セブンティーン”という小説を著しています。
12 三菱銀行北畠支店事件
三菱銀行人質事件とは、1979年1月26日に大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店で営業時間中に起きた戦後最悪の銀行強盗・人質籠城事件です。
梅川昭美(当時30歳)が営業中の三菱銀行北畠支店に猟銃を手に襲撃。500万円を要求。
対応に出た支店長をいきなり射殺。
警察に通報されたことを知った梅川は、行員と客30人以上を人質に店内に立て籠もりました。
その際、行員等を自分の弾よけとするためにまるで壁を築くかのように並べました。
また、行員に他の行員の耳を傷つけるよう命令する等、凄惨な状況が続きました。
この時、警察は梅川の母親に犯行をやめるように直接説得させましたが応じませんでした。
警察庁首脳は、これ以上人質を危険な状態にさらすことは出来ないとして、超法規措置として梅川を銃撃することを決断。
大阪府警の特殊部隊に出動を命じました。
そして事件発生から42時間後、人質の行員の今がチャンスという合図により、”伏せろ!”と叫びながら、特殊部隊が突入。
特殊部隊が梅川めがけて、一斉に射撃。
梅川に致命的なダメージを与えたことで事件はようやく終結しましたが、この間、行員2人
警察官2人の計4名が犠牲となりました。
事件は当時、リアルタイムでテレビで報道され、全国民が固唾をのんで事件の推移を見守りました。
梅川には、少年時代に重大な犯罪をおかしており、なぜこんな人物に銃所持を許可したのかということが大きな問題となりました。
この事件をきっかけに銃刀法が改正され、前科がある人物に対する銃規制が強化されました。
11 地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件とは、1995年3月20日の通勤ラッシュアワーの午前8時頃、帝都高速交通営団(現:東京メトロ)丸ノ内線・日比谷線・千代田線のいずれも霞が関方面に向かう各車両において新興宗教のオウム真理教の幹部ら
によって、戦争においても使用が禁止される神経ガス・サリン(ナチス・ドイツが開発)が撒かれ、乗客や駅員14 人が死亡、約6,300人が負傷した事件。
東京メトロのうち、なぜ、丸ノ内線・日比谷線・千代田線ということに関してはいずれの路線も政府機関が集中している霞が関駅を通るからとされています。
オウム真理教が事件を起こした目的は、国家を恐怖・パニックに陥れることにあったということで、
中央官庁の拠点である霞が関がターゲットとなり、この3路線が狙われたものとみられています。
事件当日、世界的な大ニュースとして、イギリスBBCが現場から中継で事件をリアルタイムで報道しました。
国内ではそれまで1月に起きた神戸大震災一色の報道が続いていましたが、以降、朝から晩まで地下鉄サリン事件のニュースに埋め尽くされるようになりました。
地下鉄サリン事件は、治安が良いとされる日本で起きた凶悪なテロ事件として、”Tokyo Sarin Attack”として広く知られ、
化学兵器が一般市民に使われた初のテロ事件として世界を震撼とさせました。
事件直後にこの事件が松本サリン事件と同じオウム真理教による仕業と考える人はほとんどいませんでした。
もっとも被害者が多かったのが日比谷線で、秋葉原駅で傘で穴を開けたサリンが入ったパックが大量に撒かれました、そのうち、幾つかを乗客が小伝馬町駅でホームに蹴りだしました。
後に小伝馬町駅では、蹴りだされたパックが原因で乗客4人が死亡。
小伝馬町駅でパックを蹴り出した日比谷線車両は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したものの、5分後八丁堀駅停車中にパニック状態になり、
複数の乗客が前後の車両に避難し始めました。
この時点では、乗客も運転士・車掌も車内で起きていることを正確に把握してはいませんでした。
そもそもサリンという名前自体を知らない人が大半だったと思われます。
サリンは猛毒ガスであるものの無臭であることから、乗客・運転士・車掌ともに電車の運行を停止するほどの事態でないと判断したものと思われます。
もしもサリンが強烈な異臭をするものであれば、事件は別の展開になっていた可能性があると思います。
8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れたため、運転を停止。
この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報しましたが、「築地駅で爆発事故」という認識でした。
日比谷線は、地下鉄サリン事件で最も多い6列車が被害を受け、呼吸困難や視覚異常などを訴え8人が死亡し2,475人が重症を負っています。
事件当時、現場近くで多数の負傷者が運び込まれた聖路加病院はさながら戦場状態のような状況に。
警視庁は、オウム真理教による組織的な犯行と断定、1995年5月、教団代表麻原彰晃(あさはらしょうこう)ら幹部殺人などの容疑で逮捕されました。
裁判で事件に関与したとして13人が死刑判決を受け、そのうち松本智津夫を含む7人の死刑が2018年7月6日に、残りの6人の死刑が7月26日に執行されています。
10 市川一家殺人事件
市川一家殺人事件とは、千葉県市川市のマンションに強盗目的で侵入した当時19歳だった少年が5人家族のうち、祖母、父、母、妹の4人を数時間で殺害。
唯一の生存者となった当時、高校生だった長女を数度にわたり強姦した事件。
事件の発端は長女が深夜、勉強中に突然、必要になった文房具を買いに自転車で外出中に起こりました。
犯人の少年は、自動車を運転中に自転車に乗っていた長女に後ろからわさと衝突。
車から降りてきて”大丈夫ですか車で怪我しているかもしれませんので病院に送ります”等の甘言で親切な人物を装い、長女を安心させます。
治療後、長女は一人で家に帰ろうとしますが、車で家まで送るからという少年の誘いで車に同乗。
車がしばらく走行中、人気のない場所で停車、少年が突然、刃物をつきつけ、脅迫。
少年の家に拉致され、朝まで強姦されました。
その際、長女が手にしていた生徒手帳から住所を少年にメモされたことが市川一家殺人事件につながってしまいました。
少年は、この後、客として通っていたフィリピンパブからホステスを拉致・監禁したことで、店のオーナーが激怒。
用心棒役の暴力団から営業妨害等を理由として数百万を請求されました。
こんな大金を用意できるはずのない少年は、長女からメモした住所を思い起こし、家に行き金を奪おうと行動に移しました。
住所をたよりに市川市内のマンション宅を訪れたところ、偶然、鍵がかかっていなかったので侵入。
家には長女の祖母だけがいました。
祖母からお金を奪おうと脅迫したところ、抵抗し警察に通報しようとしたことで少年が激怒。首をしめて殺害。
さらに家に帰ってきた母親に”なぜ家にいるのか”と詰問されたことで殺害。数時間後に帰ってきた父親や妹も殺害。
残された長女は犯行の気分転換と称して家の中で強姦されました。
その後、父親が経営していた会社の事務所に少年と長女が通帳を取りに来た時に社員がその行動を不審に思い
警察に通報したことで、翌日に犯行現場となったマンションに警察官が突入、少年が逮捕されました。
事件当時未成年である少年が引き起こしたあまりにも残酷な犯罪に世間は驚愕させられました。
少年は裁判で死刑が確定。
2017年に執行されています。
裁判の過程では、犯行当時未成年であった少年に死刑の対象となるのかどうか論議となり、後の少年法改正に大きな影響を与えたました。
家族で唯一生存者となった長女は、結婚しヨーロッパに移住しています。
9帝銀事件
帝銀事件とは、1948年(昭和23年)に東京豊島区の帝国銀行椎名町支店で青酸化合物を用いて、行員12人を死亡させたうえ、当時としては大金の約16万円を強奪した事件。
その奇怪な事件の展開と犯人とされた人物が死刑確定後に長期間執行されずに獄中で死去したという昭和時代でもっとも謎につつまれた事件とされています。
事件は、1948年1月26日午後3時ごろ、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に東京都の消毒班の腕章をつけた中年の男が訪れ、店内にいた行員に赤痢の予防薬を飲むように勧め、
それを飲んだ行員のうち12人が次々と死亡、犯人は約16万円を奪って逃走したという経過を辿りました。
終戦間もない時期でしたので、今と違い衛生状態は良いとは言い難い状況でしたので、行員がこの中年の男を不審に思わなかったのも無理もないことです。
1948年8月21日に犯人として画家の平沢貞通が逮捕されました。
捜査段階で犯行を自白したことで逮捕されましたが、裁判所では無実を主張続けました。
その過程で犯人GHQ説、旧日本軍説等、真偽の定かではない様々な憶測が飛び交いました。
しかし、東京地裁、東京高裁、最高裁のいずれの裁判でも有罪とされ、1955年(昭和30年)に最高裁で死刑が確定しました。
死刑確定後も平沢死刑囚は無実を訴え続けました。
その間、平沢死刑囚を支援する動きが著名な作家松本清張氏や評論家鶴見俊輔氏等にまで広がりを見せました。
中には、養子縁組をして平沢の養子となった人物も現れました。
こうした動きが影響したのか、死刑は執行されないまま時が過ぎ、平沢死刑囚は1987年(昭和62年)に一度も刑務所から出ることなく、八王子医療刑務所で95歳で死亡しました。
帝銀事件は、犯行の凶悪性もさることながら、犯人とされた人物がなぜ死刑を執行されなかったのかということに関しても最も謎の多い事件と位置づけられています。
8悪魔の詩訳者殺人事件
悪魔の詩訳者殺人事件とは、1991年7月11日、英国人のマーン・ルシュディ氏が書いた小説「悪魔の詩」の訳者の筑波大学の助教授が大学構内で何者かに刃物で惨殺された事件。
この「悪魔の詩」は、作品の中でイスラム教の創始者ムハンマドを侮辱しているとして、当時のイランの最高指導者ホメイニ師から、1989年に作者であるマーン・ルシュディ氏を「殺害せよ」との指令がイスラム教徒に対して指示されていました。
この指令により身の危険を感じたルシュディ氏は、当時、イギリス警察の保護下での生活を強いられていました。
この筑波大学助教授は、「悪魔の詩」の作者ではなく翻訳者という立場でしたので、殺害指令の対象外と思っていたのかもしれません。
また、当時の状況から警察がこの助教授の身辺警護をしていた形跡はありませんでした。
犯行現場の大学構内のエレベーターホールは、まるでイスラム教徒による処刑を思わせるような光景だと新聞・テレビが報じていました。
当時の警察関係者は、その手際の良さから”プロの殺し屋としか思えないような犯行手口”と言及していました。
当時、テレビ番組で日本在住のイスラム教徒にこの事件のコメントを求めたところ、ある人物が満面に笑みを浮かべて”ベリーグッド”と言っていた
光景が目に焼き付いています。
警察は殺人事件として本格的に捜査しましたが、靴のサイズが28センチということと犯人は外国から来たイスラム教徒ではないかという程度の情報しかつかめませんでした。
大半の日本人にとって宗教というと墓参りと初詣くらいというのが通り相場だと思います。
宗教のためにわざわざ外国にまでやってきて殺人をするという展開に多くの日本人がその”宗教の為に人を殺す”という価値観と行動に強烈な違和感と恐怖を感じたものです。
この事件は、犯人不明のまま、2006年に時効を迎えました。
7 和歌山毒物カレー事件
和歌山毒物カレー事件とは、1998年7月25日に和歌山しないで行われていた地区の夏祭りの最中に起きました。
近所の主婦たちが調理したカレーが祭りの参加者に振る舞われると、住民たちが次々と激しい吐き気に襲われ、67人が中毒症状、小学生や高校生、自治会役員の4人が死亡。
当時、この事件の一報を聞いた時、夏という時期から集団食中毒ではないかと思ったものです。
ただ、カレーのように火を通した食べ物ということ、カレーで食中毒というのはあまり聞いたことがありませんので変だなという思いを抱きました。
しかし後日、カレーからヒ素が検出されたことで集団食中毒ではなく、毒物を使った無差別殺人事件とうことが確定したことで、日本全国に衝撃が走りました。
ヒ素なんて普通の人なら目にしたこともないような毒物をなぜという疑問や不安、戦慄が人々のあいだに広がりました。
事件が起きたのが夏祭りシーズンということで、影響で食べ物の提供を中止するイベントが続出しました。
なぜ食べたら死に至るのが明白なヒ素という猛毒を誰が食べるのかわからない祭りの食べ物に混ぜたのか?
もし、怨恨が原因なら、特定の人にだけ確実に口に入るものに狙いをつけるはず、というのが大方の疑問でした。
1998年10月4日、容疑者として、林真須美死刑囚が殺人未遂と保険金詐欺の容疑で逮捕されました。
裁判では、林は無罪を主張し続けていましたが、林家にあったヒ素と祭りの場で提供されたカレーに混入していヒ素が一致したということで、自白も実行行為の確定もなされない展開で
裁判は進められました。
2009年5月に最高裁で林真須美に死刑判決が下されました。
しかし、林は現在も特別抗告を申請しています。
2021年には林真須美の長女と2人の娘が自殺しています。
6下山事件
下山事件とは、当時、国鉄(日本国有鉄道)の総裁だった下山定則氏が現在のJR東日本常磐線の北千住~綾瀬間の線路上に轢死体で発見された事件。
その日、下山氏は東京駅前にある国鉄本社で9時からの会議に出席を予定していました。
国鉄は民営化され、現在はJR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州となっていますが、当時の国鉄といえば、現在なら日本銀行総裁クラスのVIPという位置づけでした。
8時過ぎに大田区の自宅から、車で東京に向かいましたが、その日に限って途中、銀行に立ち寄り、その後、三越日本橋本店に向かったと専属の運転手が証言しています。
三越付近で下山氏から「5分くらいで戻るから」と言い残して車から降りたとされますが、結局、これが生前最後の下山氏の姿になりました。
運転手はその場で夕方まで待っていましたが下山氏が姿を現すことはなかったということです。
一方、9時からの会議に下山氏が現れないということで国鉄本社が大騒ぎになり警察に通報。
その日の夕方のニュースで”国鉄総裁の行方不明”が報じられることになりました。
警察は、三越の店員や運転手に事情聴取したものの足取りはつかめませんでした。
翌日の7月6日に常磐線の北千住~綾瀬間を走行中の運転手により、下山氏が轢死体で発見され、日本国中が大騒ぎの事態に。
鑑定の結果下山氏は7月6日午前0時過ぎに北千住~綾瀬間を通過した貨物列車にひかれたことによる死亡ということが事実認定されています。
ただ、その時に下山氏が生きていたのか・既に死んでいたのかで当時の法医学の権威が”自殺説”と”他殺説”とで2文され、マスコミを巻き込んで
大論争となりました。
後に目撃証言によって当日、下山氏は地下鉄で三越から移動し、東武伊勢崎線(スカイツリーライン)五反野駅近くの旅館に一人で滞在していたことが
判明しています。
仮に他殺説だとしても当日、なぜ出席を予定した会議を何の連絡もせず、銀行や三越に行き、さらに足立区内の旅館に一人でいたのか、疑問が残ります。
筆者は、轢死体で発見された常磐線の北千住~綾瀬間を何度も乗車したことがありますが容易に線路内に近づけるような場所ではありません。
しかも国鉄総裁がわざわざ自分の経営する会社の路線に身を投じるのか?という点が腑に落ちません。
結局、”自殺説”と”他殺説”の決着がつかないまま、捜査が終了となり、今に至るまで真相は謎のままとなっています。
5北九州監禁連続殺人事件
北九州監禁殺人事件は、1996年から2002年に福岡県の北九州市小倉北区で7人が監禁・殺害された事件。
被害者をマインドコントロールして犯罪実行要員にしたてあげる、被害者に筆舌に尽くしがたい虐待行為を繰り返した犯罪史上稀に見る凶悪犯罪といわれています。
犯人は松永太と緒方純子の2名。
この2人は小学校の同級生だったことで知り合い、不倫関係に。
松永は口がうまく、緒方を言いくるめて事件当時にはいていました。
金に困った2人は、マンションを仲介してくれた男性に投資話を持ちかけ、さらに男性の家族関係についての弱みを
握り、脅迫、松永・緒方との共同生活を強いることに成功。
その後、この男性の子供・親族を次々とマインドコントロール下に置き、拷問と虐待で金を巻き上げていきました。
共同生活では、松永・緒方は、男性の行動に問題があるとして殴ることはもちろん、“通電”、”体をペンチでつねる”などの暴力を加えていきました。
通電とは電気ショックで、被害者が火傷するまで行ったということです。
さらに親族間でお互いの不満をぶつけさせることで相互不信を起こさせることで、被害者同士で虐待をするように仕向けました。
ついには、松永は自分の手を介さずに被害者の手により、人間を殺害、死体処理まで行わせました。
北九州監禁連続殺人事件は、8歳から監禁されていた男性の娘である17歳の女性により事件が発覚。
事件発覚当時、犯行内容があまりにも残酷・凶悪過ぎる、類似事件を誘発するリスクがある ということで新聞・テレビである種の報道規制のような状態となり、事件の詳細を
報じなくなりました。
2011年12月、最高裁判所によって松永の死刑と、共犯の緒方の無期懲役が確定。
この松永が裁判や逮捕でカメラを向けられた際、悪びれるどころか、いつもにこやかにしていたことで更に戦慄を覚えたものです。
4相模原障害者施設45人殺傷事件
相模原障害者施設殺傷事件とは、2016年7月26日に神奈川県相模原市にある知的障害者福祉施設・やまゆり園で発生した大量殺傷事件。
やまゆり園の入居者19名が刃物で刺殺され、入所者・職員合わせて26名が重軽傷を負いました。
ひとつの事件で19人殺害というのは日本事件史上最悪です。
犯人は元職員の植松聖で犯行動機について、「重度の障がい者は意思疎通ができないので安楽死した方が良い」、「重度な障碍者をケアするにはお金や時間がかかり過ぎる」
という過激な説を展開したことで世間に大きな衝撃を与えました。
こうした発想は、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺にも通じる危険な思想ということで世界的にも大きく報じられました。
植松は深夜にやまゆり園に侵入、最初に職員を結束バンドで拘束。
その職員に入所者一人一人について”しゃべれるかどうか”確認して回り、ターゲットを絞ろうとしたようですが
職員が”みんなしゃべれます”と抵抗したため、植松が面倒に思い、次々と手当たり次第に入所者を刺していきました。
このような凶悪な事件を引き起こす人物には家族をはじめとした人間関係に重大な問題がある、少年時代に犯罪歴があるというケースが
多いのですが、植松は周囲の証言によると家庭も恵まれており、友達も多く、社会から孤立しているというような環境ではなかったようです。
さらに職員時代は、入所者を熱心にケアしていたということです。
その植松がなぜ、このような事件を起こしたのかということについて、ネットサーフィン等で得た情報に感化されたのではといわれていますが
あくまでも推測に過ぎません。
植松の同じ情報をみていた人物は多数いるはずですが、同様の犯罪は起きていません。
情報に感化されただけでこのような犯罪を犯すのかについては、裁判でも解明されることはありませんでした。
2020年に死刑判決が確定しています。
3西口彰連続強盗事件
西口彰連続強盗事件とは、大学教授や弁護士などを装った西口彰が3か月ばかりの間に強盗や全国で5人を殺した戦後の犯罪史に残る連続殺人事件。
逮捕後、裁判で検察側から「史上最悪の黒い金メダルチャンピオン」、裁判長から『悪魔の申し子』ともいわれた稀代の殺人犯です。
また、逮捕のきっかけが偽の弁護士を装い、熊本の家にやってきたときに、当時10歳の家の女の子が全国に指名手配されていた”西口彰”と見破ったことで逮捕されるという展開でも
人々の記憶に強く残っています。
★西口彰連続強盗事件の経緯
1963年10月18日 福岡県で男性2人を殺害、27万円を奪って逃走。
1963年11月18日 静岡県浜松市で女性2人を殺害、宝石や貴金属を奪って逃走。
1963年12月29日 東京都豊島区で弁護士の男性を殺害、14万円相当を奪って逃走。
1964年1月3日 熊本県の冤罪被害支援者宅に訪れた際、10歳の少女に正体を見破られ逮捕。
1966年8月15日、裁判にて死刑確定。
1970年12月11日、福岡拘置所で死刑執行。(享年44歳)
西口は、ある時は弁護士、別の時には縁の眼鏡をかけコートを着て、京都大学教授などと名乗り犯行を重ねました。
京大教授として静岡県の旅館に宿泊した際には、旅館から静岡大学に電話をかけたりして、女将を信用させ、客以上の関係を築きました。
しかし、結局、この女将も殺され、金品を奪われました。
しかし、それまで大人を騙してきた弁護士になりすますという手口は、熊本県の冤罪被害支援者宅の10歳の少女には通じず、殺人犯の西口と見破られ
逮捕されました。
もし、この時にこの少女が機転を働かせなければ、少女を含め家族全員を殺す予定だったということです。
西口の特長は、警察では、長らく殺人犯と詐欺犯は同一人物がするものではないというのが常識とされていましたが、西口は、それまでの
常識が全く通用しない新しいタイプの犯罪者だと認識されるようになりました。
とにかく、まるでスタバでコーヒーを注文するがごとく、簡単に人を殺していく西口を検察が「史上最悪の黒い金メダルチャンピオン」と称したのも無理もないことです。
西口は少年時代から犯罪を重ね、刑務所暮らしも少なからずありましたので、犯罪者の刑罰・更生に問題があったのではないかという見方もされています。
西口はクリスチャンの家庭に生まれ、自身も洗礼を受けたとのことですが、聖書の教えは西口には届かなかったようです。
1970年12月11日に福岡拘置所で死刑執行された際の最後の言葉は「遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン」だったと伝えられています。
西口彰連続強盗事件は、その異常性・凶悪性・劇的な結末から、これまで、複数の映画や小説の題材にされています。
中でも佐木隆三氏の”復讐するは我にあり”は、西口彰連続強盗事件をモチーフにした小説で直木賞を受賞。映画化もされています。
2 山口県母親殺害事件・大阪姉妹殺害事件
人々が事件に関し恐怖を覚えるのは、その犯行の残忍性、手口、被害者の数が主な要素ではないかと思います。
山口県母親殺害事件・大阪姉妹殺害事件は、同一人物が短期間に自分の母親と全くの行き当たりばったりの姉妹を殺害したというその理解し難い
犯人の山地悠紀夫に多くの人が戦慄を覚えたものです。
★山口県母親殺害事件
2002年に当時16歳だった山地悠紀夫は、当時好意を寄せていた女性の携帯電話に無言電話をかけたという理由で激高。
バット等で実母を撲殺。
自ら警察に通報し逮捕されています。
未成年ということで少年院に入れられましたが、3年ほどで出所しました。
恐ろしいことですが、山地はこの殺害の過程で快感に近い感情を抱いたとされています。
山地は、父親はアル中で小学生の時に死別。
買い物依存症とされた母親からも普通の子供がうける愛情を感じたことがないような家庭で育ったということです。
未成年の犯罪者にありがちですが、正常とは言い難い親子関係が事件の背景に大きく影響していると当時の新聞や雑誌等のマスコミは報じました。
★大阪姉妹殺害事件
2005年11月17日に山地悠紀夫は同じマンションに住む飲食店勤務の姉妹(27歳・19歳)が帰宅したところをナイフで刺し強姦し、殺害。
殺害した後、彼はベランダで煙草を吸った後、証拠隠滅のため部屋に放火し逃走。
12月5日に山地悠紀夫が逮捕されました。
2006年5月1日の裁判で死刑判決が下され、2009年死刑執行
少年院を出てから間もなく、大阪姉妹殺害事件を引き起こしていることから、そもそも少年院における処罰や更生が適切だったのかという疑問が
示されました。
大阪姉妹殺害事件について、裁判で「誰でもいいから殺したい」「犯行中に絶頂していた」等、全く理解しがたいことを発言したことが記録されています。
さらに恐るべきことは、山地は最初の事件で犯行中に快感を覚えたことも大阪の事件の動機となったと供述していることです。
山地はさらに裁判で「死刑でいいです。」と意思表示。
2009年7月28日に25歳の山地悠紀夫に死刑が執行されました。
1座間9人殺害事件
座間9人殺害事件は、2017年10月30日に神奈川県座間市で発生したSNSを悪用した連続殺人事件。
犯人の白石隆浩はSNSのツイッターを通じて自殺願望を持つ女性達と交流を持ち、「一緒に死のう」等と呼びかけて誘い出し、次々と殺害を実行。
殺害されたのは女性8人と男性1人。
白石は、ツイッターで「一緒に死のう」といって、”自殺願望を表明するなど悩みを抱え、精神的に弱っていそうな女性”に巧にアプローチして安心させたうえで
酒や薬を勧めて抵抗しにくい状態に陥れた後、襲い掛かり、強制性交した後、ロープをつかって殺害するという犯行を繰り返しました。
警戒心が強いとされる女性が面識のない男性にツイッターのメッセージ機能で騙されたということに関しては、家族・友人等の身近な存在に相談相手が
いなかったということも暗示されます。
被害者の女性の”自殺願望を表明するなど悩みを抱えていた”ということに関しては、”死人に口なし”ですので真偽の定かではないことです。
事件後Twitter日本法人は「自殺、自傷行為をほのめかす投稿は削除する」と告知する等の改善策を施しました。
白石のような大量殺人の犯罪者は、家庭に問題があることが多いのですが、白石に関しては父親と仲が悪かったということ以外は特に変わった環境は認められません。
また、未成年時に重大な犯罪を犯したという前歴もありません。
一見どこにでも居そうな普通の男性がまるで淡々と人を殺めていたような犯罪に世間は震撼させられました。
また、親の知らない間にツイッターが介在して自分の子供が重大な事態に巻き込まれるリスクについて認識を新たにさせられました。
唯一の男性被害者は、男性が最初の女性犠牲者と恋人同士であることで事件の発覚を恐れ殺害されました。
白石は遺体を自宅で解体、クーラーボックスに詰め込むというまるで流れ作業のような通常の感覚の人間ならとてもできないような
ことを繰り返しています。
白石は2021年1月に死刑が確定しています。
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