日露戦争の原因と勝利できた理由・負けたらどうなっていた?謎のスパイ?の情報工作とは?

歴史的な出来事・事件の解説

日露戦争とは

日露戦争とは、1904年2月から1905年9月にわたり、朝鮮半島と満州の支配権をめぐって、日本とロシアとの間で行われた戦争のことをいいます。

日本軍による旅順攻撃を皮切りに開戦。

その後、遼東半島や満州での戦闘、日本海海戦における日本軍の勝利を経て、最後はアメリカを仲介としたポーツマス条約締結で、日本が勝利で終わった戦争です。




日露戦争が起こった時代背景と周辺国の状況

日露戦争が起こった当時は、産業革命後の商工業発展のため、安い資源や原料を求めて、イギリスやフランス、アメリカなどの列強国によって、アジアのほとんどの国が植民地とされていた時代でした。当時植民地とされていなかったのは、アジアにおいては日本とタイのみです。
当時の日本は日清戦争に勝利したことにより台湾と遼東半島の支配権を得ました。

ところが、これに不満を持ったロシア、フランス、ドイツの勧告により、遼東半島を清に返還することになります(三国干渉)。

その後、清で起きた義和団事件を契機に、ロシアは南下政策を実行、そして、満州と朝鮮半島の支配権を巡って、日露戦争へと発展していきます。

日露戦争の戦費はどうやって調達したのか?ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフとの偶然の出会いで資金調達成功

日露戦争で費やす戦費を日本国内だけで調達するのは不可能な状況でした。

そこで、日本は当時の日本銀行副総裁だった高橋是清を同盟関係にあったイギリスへと派遣し、外債を発行することを要請します。難航する交渉の末、イギリスは外債を発行することを許諾します。

しかし、日露戦争を継続させるために必要な戦費には、十分な金額ではありませんでした。

当時、日本とイギリスは同盟関係にはありましたが、心底”日本がロシアに勝てる”とは思っていなかったことが十分な戦費を集められなかった背景の一つと考えられています。

そして、幸運なことに、高橋是清は、たまたまイギリス滞在中であったアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと出会います。

高橋是清は、資金調達が上手くいかず、意気消沈しているときに参加した晩餐会の席で偶然ジェイコブ・シフと隣り合わせになったことがきっかけで知り合いました。

ジェイコブ・シフは、当時のロシアにおけるユダヤ人弾圧に強い同情と怒りを感じていました。

そのため、日露戦争でロシアが敗北すればユダヤ人にとって利益になると考えた彼は、不足する戦費の外債を引き受けてくれました。

このような過程を経て、イギリスとアメリカで外債が発行され、日本は日露戦争の戦費を調達することに成功したのです。

ジェイコブ・シフは後に日本に招かれ、明治天皇に謁見、直接感謝の言葉をかけられ、勲二等旭日重光賞を授与されています。




日露戦争に勝利できた理由

①日本固有の理由
まず、当時の日本軍の士気が、ロシア軍のそれを大きく上回っていたことが挙げられます。当時のアジア諸国はほとんどが列強国の植民地とされていたため、日本としては仮にロシアに負けてしまえば国が亡びることにもなるという相当の危機感がありました。
また、戦場が日本に近かったからという理由もあります。戦闘のほとんどは極東で行われており、そのため、戦力のほとんどをヨーロッパ側に配置していたロシアよりも、戦場が近くの日本の方が有利だったと考えられます。

②日英同盟の影響
日本とイギリスは、ロシアに対抗するため、1902(明治35)年1月に日英同盟を結びました。

日英同盟で同盟国とはいえ、日本がロシア一国と戦うときは中立の立場をとる条約の取り決めになっており、軍隊の派遣等の直接的な
援助は期待できませんでした。

しかし、イギリスのおかげで戦費を調達することができ、軍艦など必要な武器を調達することもできました。

また、イギリスは、対馬に向かおうとしていたロシア海軍のバルチック艦隊の寄港・補給を世界各地で妨害しました。

このため、対馬に到着した時にはかなり軍隊が疲労していたと伝えられています。

このように、日英同盟の存在が日露戦争での勝利に大きく貢献したことは間違いありません。

③ロシア国内の状況
1905年1月、ロシアでは労働者の権利拡大を訴える民衆と軍が衝突する事件が起こりました(血の日曜日事件)。

この事件をきっかけに革命運動はその勢いを増し、ロシアでは第一次ロシア革命が起こることになります。

このような政情不安から、ロシアとしてはこれ以上、戦争を継続することが困難な状況だったといえます。

④識字率が低かったロシア兵
当時、日露戦争に参戦したロシア兵では字が読めない人員が大半だったとされ、そのため、特に対馬海戦で指示がうまく伝わらず
歴史的な大敗北の原因になったとされています。

謎のスパイ?明石元二郎の謀略とは

日露戦争のとき日本陸軍はロシア帝国内に諜報工作員を派遣、帝政ロシアに反対する革命組織に活動資金を提供しました。
その目的は、ロシア国内を混乱に陥れることでロシアを弱体化させることで日露戦争を優位に進めるためでした。

その謀略の総元締めが明石元二郎大佐です、要するに今でいうスパイか工作員という役割を担っていました。

後にロシア革命の立役者となるレーニンにも未確認ながら面会、金銭的な援助を申し出たとされています。

実際、レーニンはその著書で日露戦争について、自分たちが打倒を目指している帝政ロシアを弱体化させるという観点から肯定的にとらえていたと思われる記述が確認できます。

明石元二郎は、ジェームス・ボンドのモデルと称されるイギリスの情報部員シドニー・ライリーから旅順要塞の地図を入手したり、ロシア帝国からの独立を図るポーランド人やフィンランド人の民族主義者に資金を提供して、情報を収集する等暗躍していました。

その結果、ロシア軍に徴兵されたポーランド兵やフィンランド兵は満州の戦場で日本軍の呼びかけに応じ、次々に投降するという成果に結びつきました。

また、ロシア国内でも革命の機運が高まり、政情不安と状況が続いたことで戦争をこれ以上続けられないという機運が高まっていきました。

こうした状況でなければ、ロシアは、戦争を続行、反撃に転じた可能性が高いです。

このように日露戦争は、軍隊だけではなく、このような情報戦におけるスパイの活躍が勝利に大きく貢献したという見方が定説になっています。





日露戦争の結末

①戦死者数
日本の戦死者数は8万5千人で、ロシアの戦死者数は4万2千人とされています。

②得られた領土や賠償金
日露戦争に勝利した日本はアメリカを仲介国として、ロシアとポーツマス条約を締結しました。
そして、日本は旅順や大連の租借権、長春以南の鉄道利権、北緯50度以南の樺太(サハリン)、沿海州・カムチャッカ半島周辺での日本の漁業権を得ました。
しかし、莫大な戦費を費やしたにも関わらず、賠償金を得ることはできませんでした。

③日本国内への影響

戦費による国民の負担は大きかったにもかかわらず、賠償金は得られなかったため、戦争継続を求める声は大きく、国民の不満はとても大きいものでした。東京では、大規模な暴動も起きています(日比谷焼き打ち事件)。
しかし、ロシアに勝利したことで、列強としての国際的地位を確立することができ、国民にも大国意識が生まれることになりました。

もし日露戦争に負けていたらどうなっていた?

日本がロシアと戦った目的はロシアの南下政策を防ぎ、満州と朝鮮半島の支配権を確立することでした。
仮に日本が日露戦争に負けていた場合、満州のみならず、朝鮮半島はロシアの支配下に置かれていたものと考えられます。

さらに樺太(現サハリン)、現在も解決できていない北方領土問題の国後島、択捉島のみならず場合によっては北海道も占領される可能性もあったと考えれます。

そして、日本が負けて莫大な賠償金を支払うようなことになっていれば、ロシア国民のロシア帝政に向けられていた不満は解消され、ロシア革命は起こらず、ソ連邦が誕生しなかったかもしれません。

日露戦争の世界的な影響

日本がロシアに勝利したことは世界に大きな衝撃を与えました。

日露戦争は初めてアジアの国が西洋の列強国に勝利した戦争であり、日本は列強国としての国際的地位を得ることになりました。

その後の日本はアジアにおいて確固たる地位を占めることに成功しますが、それと同時に、アメリカの日本に対する警戒心を強めることにもなるのでした。

また、この日露戦争の勝利により、その後の国際情勢の把握、対処に常に強気にでるようになったことが第二次世界大戦における敗戦につながったという見方も有力です。




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