昭和の未解決・謎の多いミステリアスな事件一覧・昭和をリアルタイムで知る筆者がわかりやすく説明

謎・未解明事件・都市伝説

昭和時代の後半をほぼリアルタイムで経験した筆者が昭和時代に起きた未解決・謎の多いミステリアスな事件をわかりやすく説明します。
事件が起きた時の日本国内でのインパクトが強かった外国人や外国政府がかかわった事件、昭和時代ならではの珍事件も取り上げます。



下山事件

下山事件とは、1949年(昭和24年)7月5日当時国鉄(日本国有鉄道)総裁だった下山定則氏が行方不明になり、翌日の6日に現在のJR常磐線・東京メトロ千代田線の綾瀬駅付近で轢死体として発見された事件。

国鉄総裁といえば、現在は民営・分社化されたJR東日本・JR東海・JR西日本・JR北海道・JR四国・JR九州をすべて管轄する国務大臣クラスかそれ以上の地位にありました。

現在なら日本銀行総裁が行方不明になって、翌日に死体として発見されたというのに等しい衝撃的な事件。

この下山事件は、自殺説・他殺説が入り乱れました。

法医学でもその死因について東大と慶応で見方が対立。

また、アメリカ陰謀説等、真偽の定かでない情報まで飛び交いましたが、結局、未解明のまま捜査が終了。

現在に至るまで真相が不明となっています。

国鉄に関連した事件は、同じ昭和24年に7月15日に東京の中央線三鷹駅で無人電車が暴走し6人が死亡した”三鷹事件”。
8月17日には、東北本線の電車が何者かに脱線・転覆させられ、乗務員3人が死亡した”松川事件”が起きています。

下山事件,三鷹事件,松川事件は事件現場は異なるもののいずれも国鉄に関連した事件であることから、前年に行われた国鉄による10万人に及ぶ人員整理に関連しているのではないかという見方もされましたが、推測の域をでないまま現在に至っています。

帝銀事件

帝銀事件とは、1948年(昭和23年)に東京豊島区の帝国銀行椎名町支店で青酸化合物を用いて、行員12人を死亡させたうえ、当時としては大金の約16万円を強奪した事件。

その奇怪な事件の展開と犯人とされた人物が死刑確定後に長期間執行されずに獄中で死去したという昭和時代でもっとも謎につつまれた事件とされています。

事件は、1948年1月26日午後3時ごろ、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に東京都の消毒班の腕章をつけた中年の男が訪れ、店内にいた行員に赤痢の予防薬を飲むように勧め、
それを飲んだ行員のうち12人が次々と死亡、犯人は約16万円を奪って逃走したという経過を辿りました。

1948年8月21日に犯人として画家の平沢貞通が逮捕されました。

捜査段階で犯行を自白したことで逮捕されましたが、裁判所では無実を主張続けました。

しかし、東京地裁、東京高裁、最高裁のいずれの裁判でも有罪とされ、1955年(昭和30年)に最高裁で死刑が確定しました。

死刑確定後も平沢死刑囚は無実を訴え続けました。

その間、平沢死刑囚を支援する動きが著名な作家松本清張氏や評論家鶴見俊輔氏等にまで広がりを見せました。

中には、養子縁組をして平沢の養子となった人物も現れました。

こうした動きが影響したのか、死刑は執行されないまま時が過ぎ、平沢死刑囚は1987年(昭和62年)に一度も刑務所から出ることなく、八王子医療刑務所で95歳で死亡しました。

帝銀事件は、犯行の凶悪性もさることながら、犯人とされた人物がなぜ死刑を執行されなかったのかということに関しても昭和時代で最も謎の多い事件と位置づけられています。



草加次郎事件

草加次郎事件とは、1962年(昭和37年)11月4日に起きた人気歌手島倉千代子の後援会事務所に発火物を郵送し、開封した職員が火傷を負った事件。
その後、有楽町の映画館、浅草寺等に爆発物が送りつけられたり、当時の東横百貨店を脅迫したりした一連の事件を引き起こし、世間を震撼とさせました。

その爆発物や発火物にいずれも草加次郎の名前が記されていたことから草加次郎事件とよばれています。

草加次郎の草加については、事件の過程で犯人がKというイニシャルを使用していることから、”くさか”と呼ぶものとみられています。

草加次郎は、その後、地下鉄の銀座線の京橋駅で、電車の座席で時限爆弾を爆発させ、乗客10人が重軽傷を負わせたり、吉永小百合や横綱大鵬に脅迫状を送りつける等しましたが草加次郎の正体が皆目わからないまま、時効が成立しました。

3億円事件

3億円事件とは、1968年(昭和43年)12月10日に東京の府中市で起きた現金強奪事件。

日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場へボーナス支給用の現金約3億円を現金輸送車で運んでいる途中、府中刑務所付近で警察と思われる人物(偽装警察官)が白バイで突然現れ、”車に爆弾が仕掛けられている”といって、輸送車から銀行員を降ろしました。

このニセ警官がその後、発煙筒に点火し、銀行員を車から遠ざけたすきに、現金輸送車に乗り込み、そのまま運転して逃走したというのが事件の概要です。

当時の3億円は、現在なら10億円の価値がありますので、日本犯罪史上類をみない窃盗事件として警察庁も早期解決・犯人逮捕すべく延べ、約20万人もの捜査員を投入しましたが、結局何の手がかりもなく、時効が成立しました。

筆者は、時効直前まで犯人だとする警察官姿のモンタージュ写真が全国の交番に掲示されていたことをリアルタイムで経験しています。

リアル感のあるモンタージュ写真でしたが、その写真をもとに有力な情報があったというニュースは見聞きしたことはありません。
このモンタージュ写真については、すでに死んでいた人をもとに作成されたとの説も飛び交いましたが真偽は不明です。

3億円事件を巡っては、信用度の低い週刊誌や夕刊紙等で、何度も”犯人像”、”○○が犯人説”等の真偽の定かでない情報が飛び交いました。
中には犯人自殺説というような情報も存在しましたが、いずれも信頼のおける新聞・テレビで報道されることはありませんでした。

また、モンタージュ写真が”本当の犯人とは似ていない・写真にこだわり過ぎた”ことで、逆に事件の解決を遠ざけたのではないかという見方がされるようになりました。

その後に起きた事件で、犯人の似顔絵、最近では監視カメラによる動画・画像が中心となりモンタージュ写真が使用されることがほとんどなくなりました。

実際、筆者の記憶では、似顔絵で犯人逮捕に結びついた事件は複数ありましたが、モンタージュ写真が事件解決に役立ったということはありません。

皮肉なことにモンタージュ写真は手書きの似顔絵より事件解決の手段として劣るといえそうです。

青酸コーラ殺人事件

青酸コーラ殺人事件とは、1977年(昭和52年)1月から3月にかけて東京と大阪で起きた事件。

1月に東京の山手線品川駅周辺の電話ボックスに置かれていたコーラを飲んだ高校生と会社員が相次いで死亡。

3月には大阪の藤井寺市でやはりコーラを飲んだ作業員が意識不明に。

原因を調べたところ、いずれもコーラに致死量の青酸カリが入っていたことから青酸コーラ殺人事件とよばれています。

1977年当時のコーラは、ありふれた飲み物となっている現在よりも珍しいソフトドリンクでした。

そういう背景もあり、被害者は電話ボックスに置かれていたコーラをつい飲んでしまったのかもしれません。

品川の事件が正月があけるかどうかという時期に起きたこともあり、世のお屠蘇気分がいっぺんに吹き飛び、事件の衝撃とともに言い知れぬ恐怖感が全国に広がりました。

特に小さな子供さんを抱える家庭では、”外においてあるコーラやお菓子に絶対触れてはいけない”と口を酸っぱくして注意していました。

青酸コーラ殺人事件は、何の手がかりもなく時効が成立しました。
現在のように駅や街の要所に監視カメラがあったなら、すぐに犯人が捕まったのではないかと思います。





金大中事件

金大中事件とは、1973年(昭和48年)8月に韓国の元大統領候補で有力な政治家の金大中氏(後の韓国大統領)が東京から韓国当局に拉致された事件。

1973年(昭和48年)8月8日、東京九段下のホテルグランドパレスに滞在していた金大中氏が拉致され、5日後にソウルの自宅に戻ったもののその後、韓国当局に軟禁されたという経過を辿りました。

金大中氏は日本から船で韓国に拉致され連行している過程で殺される寸前に自衛隊の航空機から曳光弾を投下されたことで殺害を免れたということが判明しています。

自衛隊の背後にはアメリカ軍をはじめとしたアメリカ政府が介在していたとされていますが詳細は不明となっています。

警視庁は、ホテルに残された指紋などから当時の駐日韓国大使館の1等書記官を容疑者と断定、出頭を要請しましたが、韓国当局が拒否。

しかし、今の韓国政府の日本に対する態度からは信じがたいことですが、のちに金大中事件への関与を認めたうえで、陳謝のためキム・ジョンピル首相が来日。

日本政府と政治決着ということで、事件の真相・韓国政府の責任はうやむやにされました。

ただ、あの韓国がいち早く謝罪したことから、韓国政府が金大中事件に関与していたのは間違いないとされています。

昭和世代には、拉致事件というと北朝鮮よりもこの金大中事件を思い起こす人が少なからずいます。

日本国内で起きた外国政府主導による事件でしたが、そもそも政府が大統領選にも出馬するような有力政治家を外国から拉致して連行するという手荒な手口に当時の日本国民は大きな衝撃を受けたものです。

当時の韓国は朴大統領軍事政権が支配しており、韓国版のCIAと称されたKCIAを通じて、金大中氏のような政敵や共産主義的な思想をもつ政治犯には過酷な仕打ちを与えていました。

1億円拾得事件

1億円拾得事件とは、1980年(昭和55年)にトラック運転手の大貫久男さんが東京の銀座3丁目の道路脇で現金1億円入りの風呂敷包みを発見。拾得物として警察に届け出たものの持ち主・落とし主が現れず大貫さんが全額の所有権を得たという事件。

筆者もそうですが、3千円、5千円程度、否500円落としたか置き忘れたら大騒ぎするはずですので、この時の世間は、どんな人がこんな大金を銀座に置き忘れたのだろういうことで日本全国が侃々諤々の様相でした。

大貫さんに所有権が移った際にサングラスや防弾チョッキ姿で登場したことも話題となりました。
この光景を皮肉ったアメリカの新聞が”サングラスをした人物は強盗ではなく拾い主だ”と報じました。

銀座に1億円もの大金を忘れた人物について、株の仕手戦に関わる資金に関わる人物、企業オーナー、銀座の土地持ち等ではないかと様々な憶測・推測が流れましたが結局、謎は未解明のまま、時が過ぎていきました。

ただ、少なくとも落とし主が名乗り出られない何らかの事情があるお金であったことは間違いないという見方が有力です。

グリコ森永事件

グリコ森永事件は、1984年(昭和59年)に起きた戦後最大級の未解決事件。
事件の発端は、3月18日に当時の江崎グリコ社長が入浴中に男3人組に誘拐された事件。3日後に社長が自力で脱出したことで犯人が激怒。

その後「かいじん21面相」と名乗る犯人側が”グリコ製品に青酸ソーダ入れた”という内容の脅迫状を新聞社に次々と送りつけることで全国的な騒ぎとなり、トラブルに巻き込まれることを恐れた全国の食品スーパー等の売り場からグリコ製品が撤去される事態に。

その間、小売店舗でグリコ製品に何らかの操作をしている黒いサングラスの不審な男の写真がテレビや新聞で公開されましたが、犯人逮捕には結び付きませんでした。

グリコ関連施設に放火と犯行が次第にエスカレートしていきました。

その間、極秘裏で警察側と犯人側で現金引き渡す交渉をしていた過程で犯人を逮捕するチャンスを逃したことを契機に犯人側から”グリコ許したる”との宣言が一方的になされ、事件が収束したものと思われました。

この間の警察の失態について犯人側から”事件の担当課長を名指しでお前、最近、頭うすくなっただろう”等、警察をからかうようなメッセージが頻繁に発せられたこともそれまでの事件でないような展開で、劇場型犯罪という言葉が初めて出現しました。

その後は、森永製菓、丸大食品、ハウス食品等の日本を代表するような食品メーカーに次々と脅迫状を送りつけ、世間を極度の不安に陥れました。

犯人側のこの動きにより、当初、何らかの理由から江崎グリコに狙いを定めた事件という見方がされていましたが、そうではないということが判明しました。

この事件は、当時、海外でも大きく報じられ、特に台湾では”日本千面相事件”として日本と同レベルの報道を行っていました。

森永製菓と犯人側の連絡手段として、当時、朝日・読売等の全国紙に毎日掲載されていた”たずね人”欄が利用されていたことが後に判明し、当時、脅迫状によって、売り上げの激減を恐れた企業側がいかに追い詰められていたが窺えます。

事件解決のために膨大な数の捜査員が投入されましたが、2000年にすべての事件が時効となりました。
現在に至るまで犯人象、犯行の目的、現金を奪取したのか等は謎のままとなっています。

口裂け女事件

昭和時代をリアルタイムで経験している人なら、そのほとんどが記憶していると思われるのが口裂け女事件です。

口裂け女事件は、1979年(昭和54年)1月に名古屋や岐阜の新聞でいずでも岐阜市内で”口が大きく裂けた女”が出没すると報じられたのがきっかけで短期間に全国に広まり”口裂け女騒動”というべき社会現象にまで発展しました。

中には当時の人気美人女優の山本陽子に似ているとのリアル感ある情報も飛び交い、口裂け女が実在するのかどうかということより、最盛期には全国民が噂話で盛り上がっているような状況でした。

この口裂け女事件騒動は半年後には沈静化していき、その後、あまり話題になることはありませんでした。

もし、その時に今のように誰もがスマホを手にしていて、”口裂け女”の写真や動画を撮影できるような状況だったら、すぐに”口裂け女”の真偽が判明して、社会現象になることはなかったはずです。

そういう意味で口裂け女事件は、スマホも形態もパソコンもない昭和ならではの代表的な珍事件と言えそうです。




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