山一證券が破綻した理由を簡単にわかりやすく説明@社長や社員はその後どうなった?

■山一證券が破綻した理由・背景

1997年に山一證券が経営破綻した理由は、法人顧客向けの営業特金という金融商品に関わる損失処理を誤ったことにあります。

以下、どのように山一に損失が発生していったのか、その理由・背景を中心にわかりやすく説明します。


★山一證券法人部門が営業特金の売り込みに注力

1984年頃から、山一證券の法人部門(個人ではなく上場企業等の大企業の資金運用を担当する部門)が、野村證券等の他の同業他社との開く一方だった業績の差をつめるために、営業特金(企業が証券会社に資金の運用を一任する特定金銭信託のこと。要するに顧客企業が証券会社に株の運用を丸投げする商品)を法人顧客に積極的に売り込みをはかりました。

その際、法人顧客に対して”にぎりと呼ばれた運用利回り保証”※注 をしたものの、その後のバブル崩壊により、多額の含み損が発生したのです。

当時の山一證券は日本の四大証券会社の1角を占めていましたが、ライバルの野村・大和・日興(現日興SMBC)に比べて、個人部門が弱点でした。

逆に法人部門については、上場会社の主幹事会社数等で他社と遜色ないレベルにあり”法人の山一”と一目を置かれる存在でした。

こうしたことから、当時の山一経営陣が個人部門に比べて高収益が見込める法人部門に力を注ぐことで3社に追いつこうとしたのです。

このことが、現場に無理な営業をさせることになり、結果的に経営破たんの遠因を産み出したといえます。

★多額の含み損を抱えた背景と経営陣の対応

その損失を”含み損隠しのためだけに”設立したペーパーカンパニー等に飛ばし(一時的な移転)をして株式市場の回復による株価上昇を待つことで解決できると判断したものの、その後も市場が回復せず、含み損がさらに膨らんだことで経営破たんに至りました。

つまり、法人顧客に勧めた営業特金が、実態が”山一任せの運用”ということで、運用で発生した損失を”顧客の自己責任”というような理由で、客に負わせる事が困難であったため、山一側で引き受けざるを得ない状況に陥りました。

そして、これが原因で山一側に簿外債務が発生。

その後、当時の山一證券の社長をはじめとする経営陣が簿外債務を隠ぺい、問題を先送りしているうちに債務が巨額となったことが致命傷になったのです。

問題を先送りした背景としては、当時の経営陣が”株式市場は基本的には右肩上がりに上昇していく”と信じていたことがあります。

この”株式市場右肩上がり神話”は証券界だけでなく、当時の産業界・個人投資家・政府の共通認識に近いものでした。

山一證券が経営判断を誤ったことで”株式市場のプロともいうべき証券業の人間”でさえ、巷の個人投資家と同レベルの市場認識しか持ちえていなかったことを暗示しています。

★創業から100年の記念すべき年に経営破たん

最終的な債務は、約2600億円という巨額なものでした。

こうして、皮肉なことに山一證券は、1897年の創業から100年となる記念すべき1997年11月24日に経営破たんによって自主廃業に追い込まれたのです。

最終的な負債総額は3兆5000億円と日本の金融史上でも例のない規模の破たんになりました。

※注 にぎりについて
「にぎり」と呼ばれる運用利回りの保証、損失補填、一任勘定については、批判を受け、1991年(平成3年)に法律で禁じられました。


■山一證券を破綻に導いた”飛ばし”とは

”飛ばし”とは、簿外債務等の不良資産の損失の表面化を防ぐために、不良資産をグループ内子会社やペーパーカンパニー等に移転させることを意味します。

”飛ばし”は、1980年代では、証券会社の損失補填の方法として利用されていましたが、1990年代の山一證券をはじめとする証券不祥事で社会問題となり、現在は証券取引法で禁止されています。

つまり、”飛ばし”自体は、山一證券に限らず、他の証券会社も少なからず手を染めていましたが山一の場合、その事後処理が拙かったため、窮地に追い込まれたのです。

飛ばしの具体的な会計処理としては、山一證券の場合、決算期が近づいた企業の営業特金の含み損を表面化させないために、飛ばしをして一時的に海外現地法人等の別法人の会社に売却。

決算期が過ぎたら買い戻すということを繰り返していました。

つまり、”飛ばし”があるということは同時に違法な”粉飾決算(実際の業績より売り上げ等の数字を誤魔化して決算をよく見せること)”が行われているということになります。

■倒産と自主廃業の違い

山一證券は、一連の経営破綻により、当時の長野大蔵省(現財務省)証券局長の命により、自主廃業となりました。

要するに山一證券に対して、大蔵省は”こちらがとやかく言う前に自主的に廃業しろ”ということです。

これは同時に”大蔵省として山一證券を救済する意思はありません”と言い渡したに等しいのです。

大蔵省がこのような判断をした背景には、1969年にやはり経営危機に陥った山一證券を当時の田中角栄蔵相の決断により、異例ともいえる日銀特融によって救済したことがあり、2度目は救えませんよというスタンスで臨んだからだという見方が有力です。

自主廃業とは、法人や個人事業主が自主的に事業を廃することを意味していて、当該企業の事業の財務状況、役員の事情、事業の将来性などを考慮し、自主的に廃業するということです。

自主廃業と倒産の違いは、倒産が復活する可能性があるのに対し、自主廃業は、再起する余地がないことにあります。


■山一に冷淡だった当時のメインバンクの富士銀行とその背景

山一證券は、当時、芙蓉会系(旧安田財閥系)の企業と親密な関係を築いていました。

ですので芙蓉会の代表的な存在の富士銀行(現みずほ銀行)がメインバンクでした。

山一證券は経営破たんする間際に富士銀行に融資を願いでましたが、融資について思わしい金額を提示されなかったうえ、既に融資していたお金に対する追加担保を要求される等、メインバンクとは思えないような冷淡な対応(今風にいえば塩対応)をされました。

その背景としては、1997年に入り、都市銀行の1角を占めていた北海道拓殖銀行が経営破たんする等、日本を代表する都市銀行であった当時の富士銀行でさえも他社を救済する余裕がなかったことにあります。

実際、当時、富士銀行と同系の安田信託銀行が経営不安を理由として株価がストップ安となる等、危機的な状況にあり、その救済だけで精一杯の状況にありました。

もし、このとき、富士銀行が山一救済に乗り出すだけの余裕があったなら、経営破たんという最悪の結果とはならなかった可能性が高いです。

■当時の4大証券で、なぜ山一證券だけが破綻したのか?

★万年4位があだに

当時、日本の証券業界は、野村證券、大和証券、日興証券(現日興SMBC証券)と山一證券とあわせ4大証券と称されていました。

ただ、山一はその中で万年4位というポジションでした。

損失ほてんの問題は、野村・大和・日興も同じように抱えていました。

しかし、山一は万年4位ということで業界トップの野村が法人客に対して”損失ほてんはしません、嫌なら取引を止めていただいても構いません”というような強い態度に出ることが出来にくかったのです。

要するに”客の代わりはいくらでもいる”という余裕のある野村他3社に対して、”法人客が命綱”ともいえた山一には”法人客の要求をつっぱねる”余裕がなかったのです。

★営業現場を知らない人物が社長に

証券業界トップの野村證券は、営業成績がトップクラスの人材が社長になるという暗黙のルールがあり、実際、社長には個人営業の実績で社内外で広く知られる人物が社長に就任していました。

対して山一證券では、破綻の原因を作った責任を問われた行平、三木社長とも企画室という財務省との窓口役的なキャリアがメインでノルマ営業の経験がないというなれば、”社内官僚的な人物でした。

当時の山一證券の社長は、証券業特有の営業の修羅場の経験を経ていないため、危機時の対応方法がどうしても先送り型となったことが破綻につながったのではないかという見方もなされています。

ちなみに当時の4大証券で役員の出身大学で東大の割合が最も高かったのは山一でした。

こうした背景から、ほぼ同時期に同じような問題を抱えていたのに関わらず、山一だけが損失の処理を誤り、それが年を経ることに巨額化し、経営破たんにいたったのです。


■山一證券社長や社員のその後はどうなったのか?

★野澤社長のその後

山一證券破綻したときに”社員は悪くありませんから”と絶叫したことで、歴代山一社長のなかで最も知名度の高い野澤社長ですが、実は巨額の債務があることは、3ヶ月前に知らされたとされています。

普通、社長交代となれば前任の社長から然るべき説明があるはずですが、前任の三木社長から言われたことは”簿外にかなり大きなものがあるから”という”つぶやき”程度だったと後に述懐しています。

野澤社長は後に顧客先に誘われ、社長になる等、比較的恵まれた人生を歩みました。

★責任を問われた社長のその後

野澤社長の2代前の行平次雄元社長と1代前の三木淳夫元社長は、法人としての山一證券から「国内の簿外債務の発生」について経営責任があるとして、訴訟が起こされました。

2社長は、いずれも有罪とされましたが、その後、2氏とも程なくして死去しています。

・行平次雄元社長のその後
1998年3月2日、山一証券経営破綻の原因となった「飛ばし」処理による証券取引法違反、ならびに粉飾決算の容疑により逮捕・起訴。2010年4月1日、東京都内の病院で死去。

懲役2年6ヶ月・執行猶予5年の有罪判決を受け、2000年3月にその刑罰が確定。

・三木淳夫元社長のその後
1998年3月2日、山一証券経営破綻の原因となった「飛ばし」処理による証券取引法違反、ならびに粉飾決算の容疑により逮捕・起訴。

2001年 東京高等裁判所の判決で執行猶予付き有罪となり、刑が確定した。

2006年10月4日 死去。享年71。

★山一證券社員のその後

経営破たん後、店舗や社員の一部はメリルリンチ証券に引き取られました。

しかし、大半の社員はすぐに職を得ることができませんでした。

中には医学部に入りなおして医者になった若手社員もいます。

山一證券の廃業届けを大蔵省に持参した当時の経営企画室部長の石井氏は後に、ソニー銀行の設立に携わり、社長となっています。

でもこれらの事例は恵まれたケースです。

持ち株会を通じて、山一證券の株を購入していた多くの社員は、経営破たんにより山一證券の株が文字通り、”紙くず”となったことで、失職に加え、資産崩壊という往復びんた的なダメージを受けました。

特に経営破たん時に、再就職が困難な年齢層だった社員の多くは苦難の道を歩むことになりました。



■山一證券の破綻をより深く理解するのに役に立つ本

★滅びの遺伝子 山一証券興亡百年史 /鈴木隆(著者)

本書は、日本経済新聞の証券部の名物記者だった著者の取材対象としての観点から描かれた山一證券の破綻の背景や経過が過去の歴史を踏まえて描かれていてとてもわかりやすいです。

★山一證券の失敗 (日経ビジネス人文庫)

石井 茂著
本書は山一證券破綻時に大蔵省(現財務省)に廃業届けを提出した石井元企画室部長による当事者視点で描かれていて、リアリティが感じられます。

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