20世紀梨の名前の由来とは?なぜ鳥取が名産地になったのか?簡単にわかりやすく解説

■20世紀梨は、13歳の少年にゴミ捨て場で発見されたのが始まり

20世紀梨は1888年(明治21年)、当時13歳だった大橋(現在の松戸市大橋)に住んでいた松戸覚之助少年が親戚宅のゴミ捨て場で見たことのないような苗木を発見しのがきっかけで誕生しました。

現代で梨を含めた果実の新種というと品種改良以外に誕生することはまずあり得ません。
”梨の新種がゴミ捨て場で発見”なんていうことは当時だからあり得たといえます。


■なぜ梨の名前が発見者の苗字の松戸ではなく20世紀となったのか?

松戸少年は、発見した梨の若木を譲り受けて、育て始めました。

そして、10年後の1898年(明治31年)に苗木から梨の実がとれることに成功。

その収穫された梨が美味しく、当時の他の梨の味覚に比較にならないほどで”色は淡緑色で肉質がやわらかく、水分が多くて口の中にいれると自然にとけるような美味しい梨”と絶賛されました。

当時の梨の色といえば、赤茶色を中心とした地味な色が通り相場。

そこに淡緑色の新種の梨が登場ということで、梨の色だけでも相当なインパクトがあったようです。

梨はしばらくの間「新太白」という名前で呼ばれていましたが、専門家に質の高さが認められ、1904年(明治37年)に「20世紀」と命名されました。

20世紀になったばかりの1904年に”20世紀を背負って立つ果実になる”ことの期待を込めて、20世紀梨となずけられたのです。

それにしても、松戸少年は苗木を発見しただけではなく、その後10年も辛抱強く育成し続けたという事実には13歳という年齢を考えると称賛に値します。

その10年の辛抱に加え並大抵ではない努力があったからこそ、現在の「20世紀梨」が存在しているのでしょう。


■20世紀梨の名産地が松戸ではなく、なぜ鳥取県になったのか?

現在、「20世紀梨」の名産地として知られる鳥取県には、1904年(明治37年)に松戸から苗木が送られました。

当時の鳥取の果樹園経営者が苗木10本を購入し、本格的に栽培を始めました。
その後、鳥取各地で「20世紀梨」の栽培が行われるようになりました。

「二十世紀梨」が急斜面でも栽培できるということが追い風になり、1933年(昭和8年)頃から急速に栽培量が増え、現在に至っています。

二十世紀からはその後「ゴールド二十世紀」や「おさ二十世紀」「瑞秋」などの品種が生まれています。

現在では、鳥取県は「20世紀梨」の日本一の収穫量を誇っています。

そのため、「20世紀梨」の原産地が千葉県の松戸市ということを知る人の方が少なくなっています。

以下のように鳥取県は20世紀梨の生産量で圧倒的なシェアを誇っています。

★20世紀梨の主な産地(シェア)

鳥取県(約32%)、長野県(約16%)、福島県(約8%)

■誕生の地松戸における20世紀梨の現状

★「20世紀梨」の原木

松戸覚之助少年が生家に植えた原木は1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定されました。

しかし、昭和22年に本土空襲が原因で枯れてしまいました。。
その原木の幹片は現在、松戸市立博物館に保存されていて、見学することが可能です。

※松戸市立博物館の公式URL
https://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/odekakemap/bunkazai-map/shishitei/si33.html

★「20世紀梨」が地名に

「20世紀梨」原木が栽培されていた梨園は現在は住宅地となっています。

その地域は松戸市二十世紀が丘梨元町(にじっせいきがおかなしもとまち)となっており、「20世紀梨」は地名に形を変え、現代に生き続けています。

★松戸市における「20世紀梨」の現状

松戸市は全国でも有数の梨の産地ですが、現在では「20世紀梨」を栽培している梨園はほとんどありません。

梨の品種改良が進み、幸水等の味覚に優れた梨が相次いで誕生したこともあり、「20世紀梨」を栽培する梨園が減っていったためです。


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