北朝鮮の歴史をわかりやすく~金王朝はこうして始まった~

北朝鮮は共産主義国としては異例といえる金一族による権力の世襲体制金王朝が確立し、金日成→金正日→金正恩と3代に渡り、国家体制の中核である朝鮮労働党のトップの座を維持しています。

北朝鮮がミサイルを次々と打ち上げて国際社会を威嚇したかと思えば、一転して一時は不倶戴天の敵ともいえたトランプ大統領と対話攻勢に出る等、ブレが激しいのは金王朝ともいえる金一族による統治体制に起因しています。
北朝鮮の歴史を共産主義国の王朝制度と世界的に揶揄されるようになっていった金王朝の成り立ちを軸にわかりやすく説明します。



■北朝鮮の歴史の始まりは、分裂から

1945年8月15日に日本が終戦する直前に突如、ソ連が当時の満州方面から200万人の大兵力で怒涛のごとく侵攻を開始。

あっという間に朝鮮半島北部にまで軍を進駐させました。

北緯38度線より南側はアメリカが占領していましたので、日本が終戦を迎えたと同時に朝鮮は植民地から解放されたのですが、分裂状態で解放されるという結果になりました。

朝鮮半島の隣国でもあるソ連と日本との戦争のついでに来た感のあるアメリカでは、そもそも朝鮮の戦略的価値に対する認識には大きな隔たりがありました。

ソ連は、当初から東欧圏と同じように自分たちに都合の良い国を建国しようとしていました。
だから、アメリカから民主主義的な選挙による統一案等には聞く耳は持ちませんでした。

結局、話し合い・交渉による分裂状態の解消は実現せず、朝鮮半島の38度線南側に1948年8月15日に李承晩を首班とする大韓民国(韓国)が、38度線北側に金日成が首相の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として1948年9月9日にそれぞれ建国、分断が決定的になりました。

このように北朝鮮の歴史は朝鮮半島の分断とそれに伴うソ連の戦略によって始まったのです。

■抗日の英雄とは別人物だった金日成が北朝鮮のトップに

金日成という名前は、当時の朝鮮民族にとっては、抗日活動をする勇猛な戦士として広くしられていました。

しかし、実際には北朝鮮のトップになった金日成は本名は金成柱で、抗日活動の英雄金日成とは全く別の人物で、北朝鮮建国前はソ連にいました。

当時のソ連は、終戦後の北朝鮮の統治を任せられる人物を探していました。

そのとき、ソ連の最高指導者であるスターリンのお眼鏡にかなったのが金成柱でした。
そして、ソ連は金成柱を抗日の英雄金日成と名乗らせることで北朝鮮の指導者に仕立て上げようとしたのです。

ソ連としては、どこの馬の骨かわからない金成柱ではなく、金日成と名乗らせた方が指導者におさまりやすいとでも考えたのでしょう。

金日成がソ連の船で北朝鮮に入り、平壌で金日成として演説したときに、少なくない人々が”金日成にしては随分若いな”という印象を持ったようです。

金日成は、ソ連の後押しで指導者に祭り上げられたこともあり、特に軍事面でソ連のバックアップで、短期間に軍事力を強化していきました。



■金日成が朝鮮戦争を仕掛けた背景

当時、アメリカの国防長官であったアチソンは、太平洋・アジア地域におけるアメリカの防衛ラインについて、日本列島及び台湾”と言及、朝鮮半島については何も言及しませんでした。

金日成は、早い段階から大韓民国に攻め入ることを目論でいましたが、アメリカが介入するのではないかと警戒していました。

しかし、アチソン発言により、”朝鮮半島に事が起こってもアメリカは介入しない”と判断、最終的にはソ連のスターリンの許可を得て、1950年6月25日早朝に攻撃をしかけ、朝鮮戦争が勃発したのです。

■朝鮮戦争で追い詰められた金日成

北朝鮮は、韓国側の油断と準備不足もあり、あっという間に韓国の奥深くまで進撃、勝利目前という状況でした。

しかし、予想に反してアメリカが介入したことで戦局が逆転。
一転、北朝鮮奥深くまで進入されました。

ところが、今度は、ソ連の要請でアメリカが予想もしなかった中国100万もの大軍が人民義勇軍として突如介入して再び戦局が逆転。

結局、3年に及んだ朝鮮戦争は多くの犠牲者を出したのに関わらず、戦争前と同じ分断状態が維持されるということになり現在に至っています。

ちなみに金日成は、自分たちが韓国側に侵入すれば,”自分たちを解放者”として歓呼の声で迎えられるものとばかり考えていたようです。

でも、実際には怯えて逃げ回る群衆ばかりで、歓呼どころか共産主義に対する抜き差しならない憎悪を抱かせたということも誤算だったようです。



■敗戦の責任で政敵を続々粛清した金日成

敗戦の責任は、まずその国の最高指導者である金日成が負うべきですが、すでに独裁的な地位を得ていた金日成は、敗戦の責任を政敵に負わせ、粛清することで権力基盤を固めていきました。

このことが今につながる金王朝が始まったきっかけです。

■中ソ対立で主体思想を創始

1960年代ソ連の最高指導者だったフルシチョフと中国共産党との論争をきっかけに中ソ関係が直接、紛争を起こすまでに険悪化。

そこで中国からもソ連からも援助が欲しい金日成が創始したのが主体思想(チュチェ思想)です。

主体思想では、政治の自主,経済の自立,国防の自衛が強調され、中ソ対立の最中、片方の国から”北朝鮮はどっちの味方なのか”と問われたときに、”わが国は主体思想でやってます”と白黒はっきりさせないで済む効用も狙ったとされています。

■金正日の登場から後継者になるまで

金日成の後継者となる金正日は、1970年代に北朝鮮における大衆運動である”3大革命小組運動”のリーダーとして頭角を現します。

日本人拉致問題もこの時期に発生しています。

そして、1974年に朝鮮労働党の最高指導部である政治委員会に選出され、後継者としての地位を固めていきます。

この事実は日本の共同通信が単独スクープし、全世界に”共産主義の世襲体制”と驚きと批判の目で広く伝えられました。

実は、金日成には金正日とは別に有力な後継者候補がいました。

金正日とは腹違いの兄弟である金 平日(キム・ピョンイル)です。

金平日は、金日成に風貌が似ていて、学業成績が優秀。

背の低い金正日とは異なり、体格もよく、金日成がかつて”一族に将軍が出た”と喜んだといいます。

しかし、後継者争いで劣勢であることを察した金正日が巧みな行動で自分の支持者を増やして行き、後継者の地位を確立しました。

また、金平日の後継者脱落は、実母である金聖愛が失脚したことが致命的になったようです。

一方、後継者争いに敗れた金平日は、次第に政権がら遠ざけられていき、ハンガリーやポーランドの大使やチェコ大使等、ヨーロッパの大使職ばかりさせられ北朝鮮に足を踏み入れられない状況が現在に至るまで40年近く続いています。



■無駄な記念碑で経済疲弊した1980年代

1982年に金日成主席の生誕70周年を記念して、主体思想塔やパリの凱旋門より10m高い凱旋門を記念碑的建造物として建設。


さらに人民大学習堂や金日成競技場等の大規模な施設も建設されました。

これらの建造物自体は、経済的には何も産み出さないので、北朝鮮経済の規模からすると投資に見合ったリターンは全く見込めないものでした。


こうした、資本主義経済国では考えられない無駄な投資により、北朝鮮経済は低迷を続けます。

記念碑的建造物は、1980年に行われた朝鮮労働党第6回党大会で党秘書,中央委員,政治局員,軍事委員に就任し、後継者の地位を確立していた金正日が金日成を喜ばせるために計画・実行したものとされています。

しかし、実体経済が不振であればその時の経済政策担当者を更迭するか粛清すれば最高指導者には責任が及ばない北朝鮮の政治体制では、80年代を通じて、後継者の地位を確立した金正日の地位が揺らぐことはありませんでした。

■なぜ息子を後継者に?中国は反対だったのに黙認した背景

そもそも王政を否定する共産国になのになぜ息子を後継者にということですが、金日成は自分の死後にソ連で起きたスターリン批判のような動きが出ることを恐れたという見方が有力です。

後継者が自分の血族であれば、自分が死んでもそれまでの業績が否定されることはないとふんだのでしょう。

逆にいうと、朝鮮労働党の幹部で血族以外は信じられなかったともいえます。

北朝鮮と朝鮮戦争を通じて、後見国を自認している中国は、共産主義の立場から、北朝鮮における権力の世襲には強く反対していました。

すでに北朝鮮の皇太子格ともいえた、金正日は、1983年6月中国を非公式に訪問し,当時の中国共産党の最高幹部の鄧小平,李先念,趙紫陽らと会見しました。

この会見は、中国指導部に”権力の世襲”を認めてもらうことにあったようです。
会見を機に中国からは、金王朝ともいうべき”権力の世襲”に対する異論は聞こえてこなくなりました。

中国としてみれば、共産党の政治理論からすると”権力の世襲”は認められないが、かといって、北朝鮮の権力が不安定となって、悪影響を受けるのも困るといったスタンスで、積極的には承認しないが黙認するということで決着したということのようです。



■共産主義国崩壊と金日成主席の死で窮地にたたされた金正日

1990年代は、北朝鮮にとって苦難の時期でした。

一つは、1994年の金日成主席の死、そして1991年のソ連崩壊を起点とした共産主義諸国の崩壊です。

1994年の金日成主席の死については、一時暗殺説が出たこともあり、そうであれば政変の可能性もありましたが、結局、病死ということで金正日への権力の継承は支障なく行われました。

しかし、共産主義諸国の崩壊のうち、ルーマニアで大統領が軍によって処刑されたことを目の当たりにした金正日が、自国でもそのような事態になることを恐れ、以降、先軍政治とよばれる”全てにおいて軍が優先される”体制に移行していきます。

この先軍政治のために本来、国民にまわされるべき資金までもミサイル兵器開発に注がれ悪名高いテポドンの発射につながっていきました。

韓国との関係では、2000年に当時の金大中大統領と平壌で南北首脳会談を開き、南北共同宣言を採択しますが、両国関係に激的な変化は生じませんでした。

日本との間でも2002年に小泉首相の電撃訪朝で対話が行われましたが、拉致問題を巡って対立、現在に至っています。



■金正日の死と金正恩体制の行方

2011年に金正日が死去しましたが、このときも金日成が死去したときと同じように暗殺説が乱れ飛びました。

もしそうであれば、後継者とされていた金正恩は、まだ権力基盤が固まっていないと看做されていただけに北朝鮮の権力バランスが崩れるのではという見方が有力でした。

その見方は後に金正恩の後見人とされた張 成沢(チャン・ソンテク)の失脚・処刑によって正しかったことが証明されました。

しかし、それ以外にも金正日の最側近とされた国防大臣を次々に粛清する等、予想以上に金正恩が実権を握っていることが明らかになりました。

その後、核ミサイル実験を中国をはじめとした国際世論の反対を押し切って強行。
アメリカのトランプ大統領との罵り合いにまでエスカレート、まさに一触即発という状況にまでになりました。

ところが、2018年に入り、まずあり得ないと思われたトランプ大統領と金正恩とのトップ会談が実現、一転して対話・融和路線に転換。

さらに韓国にも親北朝鮮の文政権が誕生したことで、南北間の敵対関係は停止状態という一頃では考えられない状態に至りました。

こうしてみると、核ミサイル実験は、アメリカとの直接対話・交渉を実現するためのツールに過ぎなかったことが明らかになりました。

金正恩体制は、軍事的緊張からはかなり解放されましたが、経済制裁は続いており、経済的には苦難な状態が続いています。
北朝鮮の経済規模は日本の鳥取県レベルではないかと推測されています。

韓国の関係にしてもお互いの国民が自由に行き来できるようにしたら、リスクが大きいのは圧倒的に北朝鮮です。

北朝鮮が国際社会において正常な仲間と認知されるためには、更なる譲歩が必要なようです。

■北朝鮮の最近の歩みをことごとく当てている藤本健二氏

金正日の家庭に料理人として働き、幼少時代の金正恩とも遊んだことのある藤本健二氏。
その著書”金正日の料理人 間近で見た独裁者の素顔”では、まだ後継者が金正恩とははっきりしていない段階で”金正日総書記の後継者は金正恩です。”と断言していました。

また、別の媒体で金正恩と自身を歓迎する宴でアメリカとの関係について”アメリカと戦争するつもりは全くない”と話していたことを伝えていましたがどちらもその通りになりました。

筆者は、藤本氏の著書や関連記事は全て読んでいましたので正直、驚かされました。

一説によると、アメリカは金正恩とのトップ会談に備えて、藤本氏の著作物や記事を全て英訳したということです。

家政婦は見たではないですが、やはり実際に家庭に入り一緒に暮らしていた経験からくる知見は、どんな北朝鮮研究家の知見も足元にも及ばないと認識させられました。



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